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汗と涙と北海道と七帝柔道記

去年の夏に所用で初めて北海道に行く機会があった。はやる気持ちを抑えて空港から札幌駅に向かう。駅から歩いて10分足らず、念願の北大の正面口に立った時、文字通り感激で震えた。

芝生を縫うようにして流れる小川、何キロと続くポプラ並木。原生林の奥に鎮座するような恵迪寮。僕は熱にうかされたように日本一広大なキャンパスを歩き回った。何しろここは何度も読み返し、その度に胸を熱くした「七帝柔道記」の舞台なのだ。その題名は「ガリア戦記」から採ったという。

七帝戦は旧帝国大学間で年に一度行われる勝ち抜き戦だ。講道館ルールでは寝技や関節技は投げた後でないと認められないが、七帝ルールでは組んでから自ら尻餅をついて寝技に持ち込む「引き込み」が許されているので試合は寝技が主体となる。
柔道部に入部した著者はそこで個性的な人たちと出会う。眼光鋭く広島弁の和泉さんは強面だが後輩の面倒見がよく、自他共に厳しい。長髪でおしゃれな滝澤君は自分が正しいと思うと先輩でも食ってかかる。


北大柔道部の目的は七帝戦で優勝することだ。しかしこの稽古が凄まじい。汗が蒸気となってもうもうとする道場で絞め技をかけられ、何度も絞め落とされる。寝技で抑えこまれ息ができない。タップしても技を解いてはくれない。あまりの苦しさに泣き、プライドをズタズタにされる。それが何時間も延々と続く。

和泉さんが主将になってからは稽古は苛烈さを増す。五輪を目指すために選抜された北海道警の特練への出稽古や筋トレ。乱取りが始まると阿鼻叫喚の地獄絵図が現出する。50キロ以上も体重差のある相手に壁や鉄製ロッカーにぶつけられ、絞め落とされて失禁する。あまりにも苦しく、時間が進まない。柔道部員だけがキャンパスに取り残されているようだった。著者は悩む。他の学生はコンパに参加し、彼女とテニスやスキーや旅行をしてキャンパスライフを謳歌している。柔道部を辞めてもいくらでも民間企業に就職できる。

先輩たちは言う。

「畳の上には生きることの意味全てが詰まっている、辞めなかったやつで後悔したやつはいない」と。

悩みながらそれでも続けているうちに彼らは知らず知らずのうちに心身共に成長していく。
周囲からわがままと言われていた滝澤は一年前とはまるで別人になった。男であることの自信に満ち、みんなが振り返る堂々たる青年になっていた。こいつが俺の親友だ、と自慢したい男になった。

この病院の屋上での場面は文学史上、最も荘厳で美しい部分ではないかと思う。


ある時、北大祭で知り合った学生に声をかけられる。休学してインドに行く、という彼と別れてから著者は考える。以前の自分だったら羨ましいと思うのに、今はまったく思わない理由を。

和泉主将の最後の七帝戦は善戦ながら北大の四年連続最下位が決まった。その日の慰労会で部員は号泣する。

「北大が勝てる日はいつ来るんですか。あんなに練習したのに、無理です。不可能です」

泣いて訴える著者に和泉さんはこう言う。僕はこの言葉を忘れることはできない。

「後ろを振り返りながら進みんさい。繋ぐんじゃ。思いはのう、生き物なんで。思いがあるかぎり必ず繋がっていくんじゃ。先輩たちにとってわしらは分身じゃった。今日からは、わしらの代にとって、あんたらが分身になった。わしらはあんたで、あんたらはわしらじゃ。あんたの分身も、もうできよるじゃろが」

二年後、滝澤は主将、著者は副主将になる。著者は見学に来た新入生の目の前でわざと跳びつき腕ひしぎ十字固めなどの派手な技や様々な寝技を乱取りで見せつける。その青年は柔道の多彩な技に魅せられ入部した。
著者は四年生の最後の七帝戦後、北大を中退し新聞記者になった。

その三年後、著者の後輩のその青年が四年時に北大は優勝した。実に12年振りのことだった。優勝を見届けた青年はすぐさま中退、上京し総合格闘家になる。彼はジェラルド.ゴルドーやヒクソン.グレーシーとも死闘を演じ、現在日本ブラジリアン柔術連盟会長でもある中井祐樹である。

和泉さんは北大卒業と同時に他大学の医学部を受験し、現在ALS(筋萎縮性側索硬化症)の有数の医者として全国を飛び回っている。患者と一人一人向き合うときに七帝柔道の畳の上で相手と真剣に相対する経験が生きているそうだ。

キャンパスを歩いている間、雪の中、柔道部に入部したばかりの著者を和泉さんが行きつけの店に連れて行く光景が鮮やかに思い浮かんだ。

迷いながら柔道部のある武道館にたどり着き、僕は長い間そこから離れることはできなかった。

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