見出し画像

産後うつ。八方塞がりから差し込んだ『一筋の光』〜後編〜

※この記事は途中まで無料で読むことが出来ます。

こんにちは、Mikiです。ご訪問ありがとうございます(*ᴗˬᴗ)⁾✨今回もどうぞよろしくお願い致します┏○ペコッ✨

今回は、

産後うつ。八方塞がりから
差し込んだ『一筋の光』〜後編〜

をお話ししたいと思います。


この記事はマガジンの『私の生き方は奇想天外』に入れる記事です。

このマガジンでは私の人生体験談をお話ししています。「絶望は希望に変えられる✨」、そんな想いを伝えたいマガジンです。


前編の記事をご紹介します😊🍀⬇️
こちらも途中まで無料で読むことが出来ます。


八方塞がりから一筋の光

前編では妊娠生活についてお話ししたのですが、ストーリーが長くなってしまいました💦。結論はいつなんだ⁉️という感じなので、最初に結論を書きたいと思います。

産後うつの中で八方塞がり。そこから差した一筋の光は、

『看護師さんの機転による1本の電話』

これが結論です。


下でお話ししていきますが、私は産後うつ状態の中にいました。出産退院後は自宅で育児をしていましたが、頑張れたのは3ヶ月でした。

頼れる所もなく主人は仕事でワンオペ育児。日に日に心が苦しく、辛くなって行きました。そして5月の終わり頃、私は"過呼吸"で倒れました。

救急車で運んでもらい、病院で落ち着くのを待ちました。過呼吸は急な酸欠状態なので、体自体はすぐに落ち着きました。でも心は全く落ち着きませんでした。

「呼吸が通常に戻ったら帰って良いですよ」

病院からはそう言われました。だけど私は頑として帰ろうとはしませんでした。それはなぜか?

『誰かに助けて欲しかった』

ためです。

看護師さんは正直、困った顔をしていました。過呼吸であれば通常30分〜1時間程度で帰されます。でも私は、病院のベッドから3時間位かそれ以上離れませんでした。

主人は娘を抱えてしくしく泣いていました。

私の心の中は、

✔️もう頑張れない
✔️帰ったら私が壊れてしまう
✔️死にたくなる

という思いと、

『理解者なんて誰もいない』

という考えが頭の中で渦めいていました。

お昼頃病院に運ばれ時が過ぎ夕方頃。1人の看護師さんが行動してくれました。それが1本の電話。どこに電話をしたのか?それは

『児童相談所』

でした。

その日は土曜日で児童相談所(以下児相)は閉まっていました。だけど緊急という事で何とか連絡を取ってくれました。その結果、

『乳児院に預ける』

ということになりました。乳児院とは赤ちゃんの児童養護施設の事です。

乳児院は保育園とは違って、基本が『乳児院で生活する』のです。だから自宅に赤ちゃんは帰りません。

乳児院
・(赤ちゃんだけ)乳児院での生活が基盤
・"面会"という形で会うことが出来る
・外出又は外泊申請をすると、申請した日程だけ一緒に過ごす事が出来る
・申請した日程が終わると、帰る場所は乳児院

主人はいっぱい泣きました。一緒に暮らせない事が凄く悲しくて辛い気持ちだった。

でも私は、

『救われた』

と思いました。「あの日あのまま自宅に帰っていたら私が死んでいたかもしれない」。その位絶望していてどうにも出来ない八方塞がり状態でした。

「娘には申し訳ない」
「でも自分を守るためなんだ」

そう考えながら私は乳児院へ預ける事にしました。


『これが八方塞がりからの一筋の光』の全体像です。


結論はこんな感じです。以下、『産後生活の体験談』や『1人で抱え込まない為の知識』等を書いていきたいと思います。

知識に関しては『抱え込まないで』から書いています。知識を読まれる方は体験談を飛ばして進んで頂けると幸いです(❁ᴗ͈ˬᴗ͈))✨


ここから先は

5,266字
この記事のみ ¥ 300

皆様の励ましが私の励みになります(⋆ᴗ͈ˬᴗ͈)”🌸また、創作意欲にも繋がります。頂いたサポートは創作活動に、そして皆様の応援に使わせて頂く予定です🌱心がちょっぴり軽くなってもらえると嬉しいです✨共に心を躍らせましょう(ˆ꜆ . ̫ . ). ̫ . ꜀ˆ)◞✧🌿