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手を変え品を変え

 連休最後の日、私が自室にこもって寝ていると、2階で父と夫が大きな声でやり取りしているのが聞こえてきた。「ちょっと横になったら」と夫が父のことを気遣っている様子だ。
 何かあったのかと部屋を出て見に行くと、父がカフェRの前で転んで頭を打ったという。おでこには大きなタンコブ。
 父は「トイレットペーパーは嫌だ」とトイレでは落とし紙を使っており、ランチの前にそれを買いに行って、片手に落とし紙の大きなパック2つ、もう片手に杖を持った状態で、足がからまったのだそうだ。タンコブは出来たがそれ以上のことはなく、みんなに心配されながらもそのままカフェRで昼食を食べて、居合わせたお客さんに近くまで送ってもらって帰って来たとのことで、大したことなくてよかったと安心はしたが、今後のことを考え、シルバーカーを使うようにしてはどうかと夫と2人で提案した。私達は共働き、子どもも生まれるし、どうしても父一人で買い物に行ってもらわなければならないこともある。何より自分が食べたいパンやおやつを自分の足で買ってきてもらうことは父本人のためにもなる。
 ベッドで横になりながら「手押し車はちょっと抵抗あるなあ…」と悩む父に、とりあえずいいのがないか探してみるねと言い、荷物が入れられ、尚且つ荷物入れの上に座って休憩することも出来るタイプのものを、インターネットで探してすぐに購入することにした。
 大きな荷物を持っていたせいで転んでしまっただけで、これが続かなければいいが…。つわりの吐き気と共に、心配で頭がキーンとしてくる。
 大きな物を買うときは言ってね、手伝うからと声をかけると、優しくされて甘えが出たのか、その後何か用事をしようとするたびに「手がしびれてるから出来ない」と愚痴ぐち言っている。翌日、念のためにカフェRへ付き添うと、マスターからもお客さんからも口々に「大丈夫やった?」と心配されてしまった。
 数日してシルバーカーが届き、練習がてら一駅離れた親戚の家へ行ってみることにする。よく晴れた日の午後だったが、途中でシルバーカーに座り休憩してもらったりもして、こんな風に使うんだよと教えた。道で出会ったカフェRの常連のお客さんも、使い方をレクチャーしてくれた。お父さん、愛されてるね。よかったねえ。
 それなのに、翌日の朝、夫が仕事に行く前で時間がない中、夕食の材料を買いに行ってもらおうとしたときだった。あれとこれとこれも、と必要なものを書き出し、夫が私に「他にいるものある?」と確認すると、父が横から「わしのパンも買ってきて」と声をかけてきたのだ。体調が悪いわけではないはずなのに。咄嗟に「自分で買いなさい!」と怒り、夫が出発した後に「シルバーカー買ったばっかりやろ!何のために買ったんよ!!」と手に持っていたタオルを父に向かって投げつけてしまった。
 Hクリニックの院長に言わせれば「病人はみんなわがまま」だそうだが、何故甘えてはいけないところで甘えようとするのだろう。がんの告知をしたばかりの頃は「自分のことは自分でやらないと」とがんばっていたじゃないか。どうして自分で出来ることも「出来ない」と言い、大したことがないこともこの世の終わりかのように愚痴り、努力しようとしないのだろう。何故周りの人間の努力を無にするようなことばかりするのだろう。
 悶々としながら残り数日を過ごし、次の受診日がやってきた。前日、父に次の抗がん剤をどうするか確認する。
「抗がん剤を休んだこの3週間はどうやった?」
「体調が悪くなった」
「明日抗がん剤する?」
「する」
 とりあえず前向きな言葉が聞けたので、よかったと思った。
 話しながら、改めて父の顔をまじまじと見る。休んだ影響か、芝生のように髪が少しだけチクチクと生えてきている。前述したように手のしびれやふらつきはひどくなったと感じていて、足の裏の感覚がないとも言う。食事量が減ったのに体重は何故か少し増えている。今までは気がつかなかったが、よく見るとお腹がポッコリと出ている。父曰く「10日ほど前から出てきている」そうで、ここ数日は便秘もしていないので腹水が増えてきたのだろうかと不安になる。たった1回治療を休んだだけで、急速にがんが悪化してしまったのだろうか。
 翌日、診察でM先生に相談すると、そういうことは考えにくいとのことだったが、だったら治療をしていても徐々にがんが進行してしまっているということなのか?次のCT検査は6月1日なので、その結果を見てみましょうという結論に至った。
 手のしびれなどの悪化は副作用が蓄積されてのことだろう、と先生。後に薬剤の専門書でも読んだのだが、抗がん剤を減量しても、それまでの蓄積により副作用が増すケースはあるという。ひどくなっているなら…と、今日の抗がん剤投与を迷っているようだったが、父は自分の口ではっきりと「点滴してください」と先生にお願いした。効かないと文句ばかり言って止めてもらっていたしびれの薬も「また出してほしい」と訴えた。抗がん剤を1回飛ばしてもらったことを最初は喜んでいたはずなのに、休みの期間の方が辛かったなんて。
 抗がん剤の量は加減することなく、前回と同量で投与することになった。「今回の点滴で手のしびれなどの副作用が更に増す可能性があります。変わらなければいいんだけど、生活がままならなくなったときはすぐ来てくださいね」というM先生の言葉が私の心にずしりと重くのしかかった。結局、心配していたようなことは起こらず、副作用も今以上に悪化することはなかった。6月1日、予定通りCT検査を受け、結果は前回の検査とほぼ変わりなく、このまま抗がん剤を続けていきましょうということになる。
「手を変え品を変えがんの進行を抑えることが大事です」とM先生。
 がんとつき合いながら少しでも長く元気でいてほしい。孫が生まれて、4人での生活を楽しめるように。


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