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「答えのないことをみんなで考える」意味

「答えのないことをみんなで考える」イベント、「みんなのまなぶば」を隔週で開催している。前回ははじめた経緯を書いたので、今回はなぜ「答えのないことをみんなで考える」ことをしたいのか、について書きたいと思う。 

私たちは毎日答えを探し、出し続けている

まず、私たちは毎日、答えがあることや答えを出す必要があること、決断する必要があることについて、考え続け、答えを出し続けているように思う。今日のランチ何食べようか、とか、次の休みにどこへ行こうか、とか、どこに転職しようか、とか、レベルは色いろだけれど、毎日多くのことを決めながら生活をしている。それは生活する上で必要なことだからである。

では、その答えや決断は何がもとになって行われてるのだろうか。それは、これまでの経験や、自分の価値観なのだと思う。

「答えのないことを考える」ことは、自分の価値観を確立したりアップデートする機会になり得るのではないか。そうであれば、「答えのないことを考える」ことで、日々出し続けている答えや決断を変化させる可能性があるし、同じ答えを出すにしても、答えが出るまでの過程になんらかの影響を与えることがあるかもしれない。そうしたら、今より少し良い毎日が送れるようになるのではないかと考えた。

だから「みんなのまなぶば」はこのようなフレーズを付けている。

知らなくても、考えなくても生きていけるけど、
知っていたら、考えていたらもっと味わい深く豊かな毎日が送れる、
そんなことについて考える「みんなのまなぶば」 

このフレーズは「まなぶば」を始めた時に作ったものだが、第2回目の「普通とはなにか」について考える、を開催して、私自身が強く実感したことでもあった。

「みんなで考える」ことの意味

答えのないことを日ごろから自分で考えている、という人もいるだろう。でも私は「みんなで考える」ということに意味があるように思う。答えのないことを一人で考えることで思考が深まったり、何かを得ることはもちろんあるし、それはとても良いことのように思う。

だが、答えがないことを一人で考えていると、堂々めぐりになることが多くあるように思う。それが「みんなで考える」ことで、別の視点が追加され、より思考が深まると思うのだ。そして別の視点を取り入れて思考が深まるという意味においては、「みんな」は普段接する周囲の人でも良いが、普段接する機会があまりない人(年齢、居住地、職業が違う)であった方が効果は高いように思う。だから私たちはオンラインでこのイベントを開催している。
東京で生まれ育った私は、佐賀で生まれ育った大学生の視点や、関西圏に住むお医者さんの視点にハッとさせられることがあるのだ。この経験は、明日からの生活をガラッと変えるものになることは少ないが、長期的にみると私の毎日を少し豊かに良いものにしてくれる出来事だったように思う。

みんな違うことを実感する機会に

毎回のテーマはざっくりとしか決めていない。それは参加者が自分で考え発言することを促したいからだ。主催者としては毎回、どんな展開になりそうかなど一応考えたりもするが、その通りになったことは一度もない。それは、同じテーマを設定しても、その言葉から連想される事柄が人によって本当に全然違うからである。そして私たち主催者は、進行役としてイベントを取り仕切ることはするが、ファシリテートはしないと決めている。だから本当に参加者によって作られる会となっている。

この通り、同じテーマを掲げられても考えたり思い浮かんだりすることは、一人ひとり「みんな違う」。これは当たり前に「みんな違ってみんな良い」ということなのだと思うし、イベントはそのスタンスで進んでいく。答えがないのだから、正解も不正解もなく、人の意見を否定する必要もない。そしてそのような場にするために、「人の意見を否定しないこと」というルールを設けている。実際には、参加してくださるみなさんを見ていると、これまで誰かのことを否定するという空気になったことがない。でもこのルールがあることで安心して発言できる場を作れているように思う。

お誘い

以上のようなことを考えながら、私はみんなで答えのないテーマについて自由に考え、みんなでわいわいお話する機会「みんなのまなぶば」を共同主催している。次回は6月8日「なぜ働くのか」について考える、を開催します。
興味を持っていただいた方、お気軽にご参加をお待ちしています。


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