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埃だらけの部屋に神さまは居ない

今はない実家の話だ。昭和40年代に建てられた一戸建ての家だった。私が小学校4年の時にその新築の家が完成し引越した。

家を建てる10年ほど前に造成された新興住宅地で、周囲にはまだ空き地が目立っていた。家を建てる時の釘を打つ音がいつもどこかしらから聞こえており、週末には建前の幟を見つけて餅まきに行くのが楽しみだった。

*建前(たてまえ・上棟式)
上棟式とは、家屋の守護神と大工の神を祀って、棟上げを無事に終えられたことに感謝するとともに、最後まで工事の安全を祈る儀式で、棟上げ式とも呼ばれます。 神恩に感謝すると同時に、施主は建築現場の関係者に料理やお酒をふるまったり、手土産やご祝儀を渡したりするなどして、労いの気持ちを表します。

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その建前を行う家は、屋根に五色の布の幡を立てるので遠くからでも目印になる。そこではお祝いで餅やお菓子、おひねりの小銭を蒔くイベントがあるので、近隣の子供たちはそれを楽しみにしてた。

そんな新興住宅地で過ごした私。その後社会人になって1年〜2年で実家を出た。その最初に一人暮らしをした古いワンルームマンションはまだその場所にそのままある。昨日は偶然、そのマンション一階にあるお店でランチを食した。

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↑雪山のように粉チーズ(笑)パスタではなくスパゲッティ♬


その後は結局一度も実家暮らしに戻ることはなく、両親が要介護になってその家から両親も引き払うことになる。

要介護で身体が利かず、引越しや片付けに関するあれこれは全て私や手伝いに来た兄がやる事になった。

あたふたと引越しを済ませ、ひとまず必要な家財や身の回りの品を持って私が住んでいたマンションの同じフロアの賃貸の部屋に越してきてもらった。

後から聞くと車椅子で要介護3だった母は「ここ(引越して来たマンション)に住むのはちょっとの間だけで、2、3ヶ月で元の戸建の家に戻れると思っていた」そうだ💦 その後は結局、その戸建の家は住む人が居なくなって管理も行き届かず、売却することになっちゃった。

その家を売却する際、家の中に残っていた神棚を処分するのに専門の業者を頼む事にした。神棚が家に置いたままになっていた事を気にした母が「神棚の神様に引っ越すってちゃんと挨拶して来なかった。家の神棚をちゃんと拝みたい」と言ったのだが、私はその時即座に反論した。

「埃だらけの神棚に神様なんか居る訳ないじゃん❗️」と。


自分がそのように即答したのは自分の実感として、埃の積もった場所にはまず神様などおわすことはない、と根拠はないがハッキリ分かっていたから。だからそのように言ったのだ。


50代を超えたあたりから、時間を見つけては頻繁に旅行に出歩いていた両親。その頃は家に居るより出かけている方が多く、留守がちだった。自分たちが稼いだお金で遊び歩くのは全く自由だ。だけど元々掃除好きでもキレイ好きでもなかった両親の家は、私が訪ねる度に散らかり具合が増し、家具には埃が積もったままになっていた。家にいるときはコタツでグタグタ寝ていた。「掃除をして家をキレイに保つ」ということ自体の発想がなかったようだ💦

あまりの汚さと散らかり具合に呆れ、私が片付けようとすると「後でちゃんとやるからかまわないで❗️」と抵抗された。その通りに自分たちで片付けと掃除をやれれば何も問題はなかったと思うけど、旅行やカラオケ、友達とのお茶のみと忙しく出歩いていた両親が、部屋の掃除に時間を費やすことは結局なかった。その散らかり放題、埃だらけの実家は売却の時に私が大変な思いをして片付ける事になる。

楽しいことに時間やお金を使うのは良い。楽しく過ごすことは重要だ。だけど家の基本的な掃除等のメンテナンスもほとんどせず、埃だらけにしていて良い訳はない。用があって実家に子供達を連れてゆくと、アレルギー気味の子供たちはくしゃみをしたり鼻水を垂らして、明らかに健康に影響がある状態だった。

そんなに神経質にきちんとして欲しかった訳ではないのだ。私だってそんなにキレイ好きではない。ただ見苦しくない程度には掃除や片付けはして欲しい。埃だらけの家では健康にも良くない。

最低限、身の回りはキレイにしておきましょう、ということだ。


汚い場所には「魔」は棲みついても

「神さま」は来てくれないよ。


うちでもそろそろ「魔」が住み着いちゃいそうだが……💦



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