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パリの質屋

随分前なんだけど、北京の学校で「マイクロ・ファイナンスとしてのグラミンバンク」について話をしたことがある。まだ誰もグラミンバンクなんて知らなかったころだ。
https://www.facebook.com/grameenbank
そのときに聴講していた方から「parisのモン・ド・ピエテMont-de-Piétéに近い機能を持つのでしょうか?」と聞かれた。
その方は市内の大学で社会史を教えているとおっしゃっていた。
僕はモン・ド・ピエテMont-de-Piétéを知らなかった。だから逆に聞いた。
「教会が営む質屋ですよ。いまは銀行機能も兼ね備えています。」なるほど・・面白いなと思った。
それで次にparisを訪れた際、すぐに出向いてみた。
ルーブルから近い。アルシーヴ・ナシオナル庭園の2本ほど先ブラン・マントー通りに有った。
Mont-de-Piété。なるほど質屋と云うより小さな庶民用銀行という雰囲気だった。
時代の変転の中で、モノを担保として預かるという機能は衰退していったんだろうな、そう思った。

語源はイタリア語のmonte di pietà, 1462年にイタリア・テルニのバルナバBarnabé de Terniという僧侶が始めたものだ。当時イタリアは金利が130%というのが普通だった。庶民はこの高利に苦しめられていた。バルナバはこれに対抗して低金利または無料の質屋を教会で始めたのだ。教会がこうした施しを越えた行為を行うことは中々抵抗が有ったはず。しかし施しは、救命できても、そこから生きる意欲は生まれない。むしろもらえ続ければ働く意欲は失ってしまう。テルニのバルナバはそのヒトの本質に気がついていたんでしょうな。
彼が始めたcrédit de charitéは、じっくりと北イタリアに広がった。教会が正式に認めたのは1515年第5回レテラタン評議会のときだ。教皇レオ十世です。
フランスに持ち込まれたのは1610年、アヴィニョンです。ロレートの聖母会衆によって始められた。
パリに入ったのは1637年3月27日、新聞社のオーナーだったテオフラステ・ルノーThéophraste Renaudoが始めています。5年後、ルイ13世は王国内の58都市にモン・ド・ピエテMont-de-Piétéを設立することを許可しました。
しかしルイ13世の死後、評議会は高利貸からの圧力に負けて、いとも簡単に全仏のMont-de-Piétéをすべて閉鎖しています。
・・再開するには100年以上かかった。ルイ16世が再開を命じたのは1777年12月9日です。
しかし・・これもまたフランス革命によって破綻してしまいます。
再々開を命じたのはナポレオン一世です。1805年7月です。この時に開設されたのが前述ブラン・マントー通りにあるMont-de-Piétéだったんです。
ナポレオンは貧乏の辛さが分かる王だった。だからこそ出来た再々開だったに違いありません。

そのとき、僕はしばらくparisの質屋"Mont-de-Piété"の前に佇んでしまった。
ナポレオン三世は、この辺りを「フランスの顔」にするために大改造を仕掛けた。その大仕掛けの中でもこの質屋は生き残ったんです。脈々と/連々と、貧しい人々の生活と「やる気」を守った。彼は、無残に「貧民の支え」を潰したりはしなかった。
「なかなかやるなぁ~あいつ」
僕は、あの髭つらの貧相な小男ナポレオン三世を想って小さく笑ってしまいました。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました