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佃新古細工#03/寿司を"弥助"と呼んだ叔父のこと

ウチは元佃に在った。母の姉夫婦が同居していた。父は此処から第一生命ビルへ通っていた。
「毎朝ジープがお迎えに来てたよ」と、何かの拍子に叔父が言ったことがある。「佃小橋ンとこまでな」我が家は細い路地の中に有った。そのいかにも下町らしい路地を軍服姿の父は颯爽と歩いたに違いない。僕は何度もその姿を幻視した。
僕は築地産院で生まれた。でも生まれてすぐ父が横須賀基地へ転任になった。なので僕らは父に附いて横須賀へ移った。元佃のウチは、母の姉夫婦だけが暮らすようになった。父が亡くなって、色々なことがあって、僕ら母子がこの家に戻ったのは僕が小学校3年の時だったから、8年近く姉夫婦だけが住んでいた計算になる。
僕ら母子は2階に住んだ。一階はそのまま叔母夫婦の生活の場になった。
東京へ戻ると、母は銀座でホステスとして働き始めた。子供から見ても母は美人だったから、きっと引く手数多だったかもしれない。昭和30年代・東京オリンピック前である。戦災を越えて生き残った東京がまだ息づいていた時代である。実は・・・僕の「東京の原風景」は、このオリンピック景気によって大半が壊されてしまっている。
NYCもParisも、歴史が積層していく街だ。東京はごっそりと欠落していく街だ。そんな風に、自分の原風景が心の中にしかなくなってしまうのは、何とも悲しい。

その元佃で暮らしていた叔母夫婦だが、祝い事があると必ず叔父が「弥助を誂えな」と言ったことを、これを書きながら唐突に思い出した。
弥助というのは寿司のこと。誂えるというのは、この場合注文することなんだが・・上田秋成の雨月の中にも「佐用氏にゆきて老母の介抱を苦(ねんごろ)に誂(あつら)え」とあるから、用法としては間違ってなかったんだろうな。「注文する」というより「誂える」という言葉に特別感があったのかもしれない。
ところが叔母が言うとなると「おすしを頼もうか」になった。叔母は寿司を"弥助"とは言わなかった。"弥助"は男言葉だったんだろうな。
なぜ寿司を弥助というか・・この辺は演劇の素養がないと見当がつかない。
浄瑠璃「義経千本桜」である。
三段目・寿司屋の段に"弥助"という名前が出てくる。
下市村の釣瓶寿司屋に匿われた平惟盛(たいらのこれもり)が弥助と名乗ったところからきている。
江戸前な男たちに芝居と云えば歌舞伎だったから、普通に通じる言い回しだったんだろう。・・ところで叔母が「お芝居」というときは、新派を指していた。この違いも面白いと思いませんか?
「義経千本桜」だが、この「寿司屋の段」だけが掛ることはない。「木の実・小金吾討死」とセットだ。機会があれば、ぜひ歌舞伎座へ観てください。ちなみに出来れば・・幕間には弥助を誂えて。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました