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2万年前の姫(1)

 2051年7月、八王子市の午後5時。
 高校1年の雪風冬馬ゆきかぜとうまは剣道部の練習が終わると、一目散に道場を飛び出した。
「おさきに!」
「冬馬! 今日の部室の掃除当番、お前だろ!」
 3年の部長がツバを吐きながら怒鳴る。
「ごめん! 明日やるよ!」
「昨日もそう言ってサボっただろう! なめんなコラ――!」
「そうだっけ?」
 部長に両手を合わせて、ゴメン、とジェスチャーして更衣室に飛び込む。
 急いで学生服に着替えて、スクールバックを肩にかける。
「今日は、3か月ぶりに、父さんが、帰ってくる!」
 校舎の正門を走り抜けると大きな海が見えた。その海沿いの歩道を全力で走る。
 西日が眩しくて目を細めた。
 斜めに傾いた電波塔が、美しい。
 けれど、駆けるスピードは落ちはしない。
 はやく、父さんに会いたい。その気持ちで一杯だ。
 父、雪風健二郎ゆきかぜけんじろうは船長だ。大きなタンカーで外国から様々な資材を運んでいる。
 仕事に出ると2か月から3か月は帰って来ない。
 体の小さかった冬馬は、高校の部活は剣道部を選んだ。
 一日も休まず練習をした成果もあって、最近ぐんと背が伸びて、強くなった。
 この成長した姿を、一刻も早く父に見せたかった。
 母はいない。冬馬が3歳のとき、事故で亡くなった。そう聞いている。
 そのため、父が仕事で留守の間は1歳年下の妹、六花りつかと2人暮らしをしている。
 近所の親切なおばちゃんが、夕食のおかずを持ってきてくれたり、相談にのってくれたり、何かと面倒をみてくれるので今まで困ったことはない。
「六花、きっと今ごろ、父さんの外国の話を聞いているんだろうな」
 そう思うとワクワクして、自然と走るスピードが上がった。

 遠くから、消防車のサイレン音が聞こえてきた。
 風に乗って、焦げ臭いにおいも漂ってくる。
 空を見る。
 もうもうと、黒い煙が立ちのぼっていた。
「俺の、家の方向……」
 胸騒ぎがする。
 急いで交差点を左に曲がると、たくさんの野次馬が前を塞いでいた。
 野次馬をかき分けて、最前列まで這い出る。
 一軒の家から赤い炎と黒い煙が、激しく吹き出していた。
「お、俺の家が……、燃えている……」
 頭の中が真っ白になった。
 パリン、と1階のリビングの窓ガラスが割れて、炎が吹き出した。
 熱でガラスが膨張して割れたんだ。六花と父さんは無事に逃げたのだろうか?
「助けて――!」
 リビングから炎の吹き荒れる音に混じって、かすかに、女の子の叫ぶ声が聞こえた。
 その声の主は、妹の六花だ。間違いない。
「り、六花が、中にいる!」
 反射的に駆け出そうとした。すると、後ろの人に肩を掴まれた。
「よせ!」
 振り返ると、スーツ姿の紳士的な男だった。
 黒いシルクハットを被り、白い手袋をして、片手にスティックを持っている。
「放してください!」
「気持ちはわかるけど、危険だ」
「家の中に、妹が、六花がいるんです!」
「妹?」
「そうです! あの家に、妹がいるんです!」
 そう言うと、男の目が大きく見開いた。
「君は、あの家の者なのか?」
「そうです! だから助けにいかなきゃ!」
 男の手を振り払って、駆け出した。
「待ってろ六花! 必ず兄ちゃんが、助けるからな!」
 両腕で顔を覆って、リビングの割れた窓から飛び込む。
 煙が目にしみる。それに熱い。それでも妹を助けるために、両目を見開いた。
 ツンと頭が痛くなる、油の臭いがする。
 誰かが家の中で油をまいて、火をつけた。つまりこれは、放火だ!
 瞬時にそう理解した。
「誰が、こんなひどいことを……」
 奥歯を噛みしめた。けれどすぐに首を振った。
 放火魔のことはあとだ。今は、妹の六花を助け出すことが最優先だ。
「六花! どこだ? 兄ちゃんが助けに来たぞ!」
 パチパチと音を鳴らしながら吹き荒れる炎から、片腕で顔をかばいながら前に進む。
 リビングの壁が火で覆われていて、焼けるように熱い。けれど、フローリングの床は火が少ない。前に進めそうだ。
 奥の台所へ向かう。
 台所のテーブルの下で、白い制服を着た人が床に伏していた。
「父さん!」
 な、なんてことだ……。父さんも六花も、家にいて、放火された。
 駆け寄って、父の顔をのぞく。額から大量の血が出た痕があった。
 この怪我、きっと放火魔に襲われたんだ。
 父は冬馬に気づいたようで、「うううっ」と低い声をあげると薄らと目を開けた。
 とても疲れ切った、顔をしていた。
「と……、冬馬か?」
「そうだよ。冬馬だよ」
 父が、嬉しそうに微笑む。
「冬馬、たくましくなったな……」
 嬉しさが込み上げてきた。けれど、グッと堪える。
「父さん、そんなことより、早く逃げよう!」
 父を肩に担いだ。思ったより軽く感じた。
 台所の横にある勝手口のドアが開かれていた。いや、開かれているのではない。ドアは破壊されていた。その勝手口の先に、宅配用のトラックが横付けされていた。
 トラックの荷台の中へ、宅配業者の制服を着た二人組が、少女を押し込む光景が見えた。
 荷台に押し込まれる瞬間、少女が冬馬に顔を向けた。
「お兄ちゃん!」
「六花!」
 冬馬の声に驚いた二人組は、六花と共に荷台に乗り込むと、トラックが勢いよく走り出した。
 勝手口の前は大きな庭があり、高い塀で覆われているから、外からは見えない。
 この家の死角だと前から思っていた。そこが狙われた!
 父を肩に担ぎながら、急いで勝手口を出てトラックのあとを追おうとした。
 しかし、猛スピードで家の敷地から走り去るトラックを、冬馬は呆然と見つめることしかできなかった。
 荷台の扉が、閉じられた。その瞬間、二人組に体を押さえつけられた六花が、救いを求めるように、片手を冬馬へ向けて延ばした。
「六花――!」
 くやしかった。何もできなかった自分が、情けなかった。
 消防車のサイレン音が鳴り止んだ。
 やっと消火活動が始まったようだ。救急車もすぐに来る。
「冬馬……、おろしてくれ……」
 父が小さくそう言った。
 この瞬間、冬馬は悟った。もう、父は助からないと。
 グッと奥歯を噛みしめながら、父を柔らかい土の上に、そっと降ろした。
 上半身を起こした父は、制服の内ポケットに片手を入れて、何かを取り出した。
「冬馬、受け取れ」
 父の片手に握られていたのは、透明感のある赤色のプレートのついた首飾りだった。
 まるで綺麗な血を固めたようなプレートだ。
 戸惑いながらも、受け取る。形見になるかもしれないからだ。
 幅3センチほどの縦長のプレートには、みたこともない小さな文字がびっしりと刻まれていた。
「父さん、これは?」
「とても……、大事なものだ」
 とりあえず、ズボンのポケットに入れた。あとで大事にしまおう。
「父さんを襲ったの、誰なの? 六花を連れ去ったのは、誰?」
 すると父は、冬馬から視線を外した。
「すまない……。本当は、今日、全てを、話そうと思っていた……」
 それを聞いて、冬馬は確信した。
「やっぱり……、六花は、本当の妹じゃ、ないんだね」
 薄々気付いていた。六花とは、血がつながっていないのでは、ないかと。
 髪の色は冬馬と同じ黒髪だけれど、六花の瞳の色は深緑色だった。それに容姿も日本人離れしていた。まるで外国人のような感じなのだ。
「六花を、救い出して……、くれ……。頼む……」
 途切れ途切れの小さな声だった。
 言い終えると、父の目が閉じた。
「父さん! 死んじゃダメだ! 起きて!」
 父の肩をいくら揺すっても、再び目を開けることはなかった。
「君、大丈夫か?」
 その声で顔を上げると、銀色の耐熱防護服で身を包んだ消防隊の姿があった。
「はい」と肯定すると、冬馬は消防隊の肩に担がれながら救急車に乗せられた。
 父が担架に乗せられる光景が見えて、少しだけ気が緩んだ。
 直後、ふっと体から力が抜けて、冬馬はそのまま気を失った。

 冬馬が目を覚ますと、ぼんやりと、白い天井が見えた。
 消毒のアルコールの臭いがする。どうやら、病院のようだ。
「ようやく、目を覚ましたようだね。冬馬君」
 男の声。その方に目を向けると、スーツ姿の紳士的な男が、窓際の椅子に座りながら、優雅に紅茶を飲んでいる姿が見えた。室内にもかかわらず、両手に白い手袋をしている。
「あのときの野次馬……。どうして、俺の名前を?」
 そう聞くと、男はティーカップをテーブルに置いた。冬馬へ顔を向ける。
「野次馬とはひどい。私は、レオン。君の父親の知り合い、とでも言っておこう」
「父さんの知り合い?」
 ゆっくりとレオンは頷いた。
 うすらぼんやりと、記憶が蘇ってきた。
「そうだ、確か、俺と父さんは救急車に乗せられた。父さんは、どこですか?」
 レオンは静かに首を横に振った。
「残念だけど、亡くなったよ」
「父さんが……、死んだ?」
 ベッドのシーツを握り絞めた。
 あの頭の傷を見たときに、致命傷だと思った。こうなることは、わかっていた。
 だから、悲しいとは思わない。父の死は、受け入れる。そう決めた。
 泣き叫びたい気持ちを、グッと噛みしめて、気持ちを落ち着かせる。
「レオン……、さん。父さんはなぜ、殺されたんですか? 六花はなぜ、誘拐されたんですか? ……知っているんでしょう?」
 あの火事の現場にレオンがいたのは、偶然とは思えない。きっと何か知っているハズだ。
 この問いに、レオンに動揺する様子はみられなかった。それどころか、ティーポットを手に取るとティーカップに紅茶を注ぎ始めた。
 ダージリンの強い香りが、冬馬の所にまで漂ってきた。
「ふ――ん、このダージリン、最高にいいねぇ。君も飲むかい?」
「結構です!」
 話をはぐらかされた気分になった。
「はははっ、それだけ元気があれば、もう大丈夫だな」
 と笑うと、レオンはティーカップを片手に持ちながら立ち上がった。
 窓からの、外の景色に目を細めながら、紅茶をひとくち。
「いい眺めだ。ここからだと、水没した東京都がよく見える」
「それが何ですか?」
 そんなの当たり前じゃないか。
「冬馬君、君は知っているかな? 15年前、あの水没した場所には、東京都23区と呼ばれた地域があったことを」
「それ、授業で習いました。温暖化で南極と北極の氷が一気に溶けたんですよね。それで海面が数十メートル上昇して、水没した。そんなの、誰でも知っていますよ」
 言い返すと、レオンは体を半回転させた。
「よくできました。と言いたいところだが、二十点だ」
 その態度、バカにされた気分になる。
「レオンさん、それが、父さんと六花に、関係があるのですか?」
「おおありだ。今から教科書に載っていないことを話す」
「教科書に載っていないことだって?」
 冬馬は眉を歪める。このレオンの言葉が、だんだん信用できなくなってきた。
「南極や北極の氷、それに永久凍土。これらには数万年前の状態が閉じ込められていた。それが溶けた。その中に、未知の生物がいたら、どうなると思う?」
「未知の生物が……、地上に現れた……」
 なんとなく、そう答えた。
「その通り。ほとんどは死骸だった。けれど、生きている生物もいた。しかも、その生物は、強い生命力と、強大なパワーを持っていた。我々は、魔獣、と呼んでいる」
 数秒、病室が静まり返った。
 ふふふっ、と思わず笑ってしまった。
「バカバカしい。数万年前の魔獣が、この世界に蘇っただって? もしかして、その魔獣が、父さんを殺して、六花を誘拐した、とでも言うんですか? レオンさん、俺が子供だと思ってバカにしているんですか?」
 言い捨てて、ベッドから飛び起きた。ベッドの横にあるロッカーを開ける。
 白いシャツと黒の学生ズボンがハンガーにかかっていた。
 病院の寝間着を脱ぎ捨てて、シャツに腕を通しズボンをはき、ベルトを締める。
 もう、レオンとは付き合い切れない。父の知り合い、と言っていたけれど、もう信用できない。
「レオンさん、いろいろ面倒をみてもらって、ありがとうございます。これから警察に行って、六花を助けてもらうよう、依頼します」
「警察に行っても無駄だ!」
 しつこい!
 レオンを睨む。
「いい加減にしてください!」
 レオンがポケットから澄んだ赤いプレートを取り出して見せつけた。
「これは、魔獣を狩る者に与えられるライセンス証、ブラッドプレートと言う。君、持っているのだろう?」
「魔獣を狩る者に与えられる、ライセンス証だって?」
 冬馬はズボンのポケットに手を突っ込んだ。
 あった。
 手を持ち上げると、赤いプレートのついた首飾りが出てきた。
 父からもらった、大事な形見だ。
 ツカツカとスティックを付きながらレオンが歩み寄ってきて、冬馬の前で止まった。
「冬馬君、よく聞け。君の父、雪風健二郎は、連邦政府直轄の組織、ヘムネイルのメンバーだったのだよ。そのブラッドプレートが証拠だ」
「連邦政府直轄の組織? 父さんが?」
「そうだ。私もヘムネイルの者だ」
「ヘムネイルって何ですか?」
「組織のコードネームだ。今はそれ以上は言えない」
「……父さんが、そんなところで働いていたなんて。信じられない……」
 赤いブラッドプレートを見つめる。
 確かに、レオンと同じプレートだ。ここでレオンを疑えば、父さんをも疑うことになる。
 悔しいけれど、レオンの言葉を認めるしかない。
「わかりました。父さんがヘムネイルのメンバーだったことは信じます。そのかわり、教えてください。父さんはなぜ、殺されたのか。六花はなぜ、誘拐されたのか。その理由を」
「よかろう。落ち着いて聞き給え。ただしここからの話は極秘だ。いいね?」
 頷くとレオンも頷き返した。
「六花君は、南極の奥深い氷に眠っていた、およそ2万年前の、人間、なのだよ」
「な、なんだって?」
 腰が抜けるかと思った。
 これが落ち着いて聞いていられるか!
「発見されたときは、生まれたばかりの赤ん坊だった。六花君には、不思議な能力があった。魔獣をコントロールする力だ。だから、狙われた」
「六花が、魔獣をコントロール? だから狙われた? それって?」
 レオンは白い手袋をはめた右手を握り絞めると、自分の顔まで持ち上げた。
 恐ろしく怖い目付きで、ぶるぶると震える拳を見つめている。
「君の父親を殺し、六花君を誘拐したのは、我々と敵対し、魔獣でこの世界を支配しようとする、最悪のテロ集団だ」

 ギロリ、とレオンの強い眼差しが、そのまま冬馬へ向けられた。
「必ず、六花君は救い出す。約束しよう。私を信用しなさい」
 冬馬は混乱する。
 魔獣だの、2万年前の人間だの、そんなこと急に言われても、信用しろと言う方が無理がある。
 けれど、レオンが嘘を言っているようにも思えない。
 父が殺され、妹の六花は誘拐された。これは事実だ。
 六花を誘拐した犯人が、本当にレオンの言う、世界を支配しようとしている連中だとすれば、世界的な大きな組織かもしれない。
 そうであれば、日本の警察に頼んでも、六花を救い出せるかどうか、わからない。
 レオンは、必ず六花を救い出す、と言った。何か情報を持っているに違いない。
 六花を救うには、レオンを頼るしかない。
 そう思うと、やりきれない思いが込み上がってきた。
「くそっ!」
 声を張り上げて、思いっきり病室の壁を殴りつけた。
 右の拳が腫れ上がり、じわりと赤い血が染み出る。
 冬馬は肩で息をして、呼吸を整える。
 レオンはコートハンガーに掛けてあるシルクハットを頭に被り、壁に立てかけてあるスティックを手に取った。
 そして、ツカツカとスティックを床に着きながら、無言のまま冬馬の横を通り過ぎ、病室を出て行った。

 これでいいのか? 他人に六花を任せて本当にいいのか? 俺は、一夜で家族を失ってしまった。頼る親戚も知らない。帰ってくるかどうかわからない六花を、漠然とひとりで待つ日々なんて、耐えられない。だったらいっそう、レオンについて行って、六花を、自分の手で救い出したい!

 冬馬は奥歯を強く噛みしめた。そして決意する。
 廊下に出て、レオンの背に向かって叫ぶ。
「待ってください!」
「何だね?」
 と振り返る。
「俺も……、俺も、連れて行ってください!」
 レオンが冬馬を睨む。しかし冬馬は動じない。
「俺も、六花の救出に、連れて行ってください!」
「……危険だ。命を落とすかもしれない」
「かまいません」
「学校はどうする?」
「休みます」
 レオンは溜め息をつくと首を横に振った。
「正直、君は足手まといだ。遠慮してくれ」
「六花は……、六花は俺の妹なんです。血がつながっていなくても、一緒に暮らした妹なんです。俺は、妹を、この手で、救い出したい」
 冬馬は左手に持つ父からもらったブラッドプレートを、レオンに見せつけた。
 血を固めたような真っ赤なプレート。
 これは、魔獣を狩る者のライセンス証だとレオンは言った。
 このプレートに、どんな意味があるのか、確かめる必要がある。
「レオンさん、ヘムネイルについて、このブラッドプレートについて、詳しく教えてください」
「今は、話せない」
「俺は、父さんの本当の子供です。俺には父さんの血が流れています。父さんは、ヘムネイルのメンバーだったのでしょう? ヘムネイルが何なのか、わからないけど、俺にも、そのメンバーになる素質が、あるんじゃないですか?」
 はったりで言ってみた。でも意外と効いたようで、レオンは、シルクハットのつばを少しだけ持ち上げると、じっと冬馬を見つめた。
「冬馬……」
 冬馬の呼び方が、変わった。
「その無鉄砲で情に厚いところ、お前は、健次郎によく似ている。冬馬、ヘムネイルのメンバーに、なる気があるのか?」
 無言で頷く。
「冬馬、ヘムネイルのメンバーになれば、あとには戻れない。ヘムネイルを辞めることは、できない。もし、気が変わって、ヘムネイルを抜けたら、一生追われるか、最悪、死ぬことになる。お前に、その覚悟は、あるか?」
 冬馬は、ブラッドプレートを強く握り絞めた。
「六花を助けに行けるのなら、なります。ヘムネイルに」
 レオンは冬馬を品定めするように、じっと見つめた。
 数秒後、
「よかろう。我々のオフィスへ案内しよう。話はそこでする」
 と冬馬に背を向けると再び歩き出した。
 冬馬は、やった、と心で叫び拳を握りしめた。
「六花、待ってろ。兄ちゃんが、必ず助けに行くからな」

 ***

 六花が目を覚ますと、そこは屋根付きのベットの上だった。
 ベッドのマットはふわふわで、とても柔らかい。
 けれど、なんだか頭が重い。悪い夢でも見ていたのかもしれない。
 上半身を起こして、周りを良く見る。
 壁には、金色の額に収められた風景画が数枚飾ってあった。
 部屋には、アンティーク調の高級そうなソファーとテーブルもある。
「何だか、外国の貴族の部屋みたい……」
 とのんきに感想を言っている場合ではない。
「えーっ? ここどこ?」
 頭を抱えた。
 だんだん思い出してきた。
 あの日、父が3か月ぶりに帰ってきて、外国の話を聞いていた。
 夕方、勝手口に宅配の人が来た。どうして勝手口に来たのか、あまり深く考えずにドアを開けてしまった。すると、宅配の人が急に襲ってきて、配送車に連れ込まれた。
「あたしは、誘拐されたんだ。だとすれば、ここは、誘拐犯の家」
 父があの後どうなったのか心配だ。それに、冬馬も学校から帰ってきたはず。
「お父さん、お兄ちゃん……、今ごろどうしているかな……」
 でも、そんなことを考えてもどうにもならない。まずは今の状況を把握することが先決だ。警戒しながら、再び部屋を見回す。
「普通の寝室だ。……って言うか、かなり立派な寝室ね」
 手と足を見る。
「縛られていない。自由だ。……あたし、本当に誘拐されたのかな?」
 今の自分の身がどうなっているのか、わからなくなってきた。
 ベッドから降りて、横にある金縁のアンティーク調の姿見の前に立つ。
 鏡に、薄いピンク色のワンピースを着た六花が映し出される。
「目の下に隈ができてる……。変な顔……」
 コンコン、とドアをノックする音が聞こえた。
「誰?」
 と反射的に訊く。
「お嬢様、入ります」
 と、女性の声がするとドアが開いた。
 寝室に入って来たのは、黒いメイド服を着た20代前半くらいの女性だった。
 ショートヘアーで、丸い眼鏡を掛けている。
 警戒しながら、その女性の行動を観察していると、目が合った。
「私はメイドのルーシーと申します。お嬢様の身の回りのお世話をさせて頂きます」
「お嬢様って、誰のこと?」
 そう訊くと、ルーシーが丸い眼鏡を片手でクイッと持ち上げた。
「この寝室には、お嬢様しか、おりませんが」
「そうじゃなくて……」
 なぜあたしを、お嬢様って呼ぶのか、理由を訊きたかったのだけれど、まぁいいや。
 ルーシーと話が合わなそうなので、もっと大事なことを訊くことにする。
「ねぇルーシーさん。ここはどこなの?」
「ここは、船の中です」
「船の中ですって?」
 驚いた。どうして船なんかに連れてこられたのか、全然わからない。
 けれど、はっきりしたことがある。六花はやっぱり誘拐された。
 だとすれば、その目的が知りたい。
「教えて。どうして、あたしなんかを、誘拐したの?」
「誘拐? 何を言っておられるのですか? お嬢様は、保護されたのです」
「保護?」
「お嬢様は、生まれてすぐに行方不明になったと聞いています。誰かが、赤ちゃんのお嬢様をさらったのでしょう」
「えっ? あたし、赤ちゃんのときに、さらわれたの?」
「そうです。お嬢様は、ある高貴な家に生まれた、アミラ様でございます」
 知らない人から、急にそんなこと言われても、信じることなどできるはずがない。
「違う! あたしは、六花! 雪風六花です!」
 全否定すると、ルーシーは面倒くさそうに溜め息を吐いた。
「お嬢様、もう少し冷静に自分の立場を考えてください。どうして、お嬢様が日本で暮らしていたのか知りませんが、お嬢様は日本人にはとても見えません。瞳はモスグリーンだし、肌も色白。日本人離れしています」
「た、確かに……」
 学校で、目の色や色白の肌のせいで、いじめられたことがある。
 でも、ただの遺伝のいたずら、と父から聞いていたので、それを信じていた。
「これからお嬢様は、正当な所に、帰るのです」
 六花は混乱する。
「そ、そんなこと、急に言われても困るよ。お父さんやお兄ちゃんと、離れて暮らすなんて、そんなのイヤだよ」
「そんなこと知りません。お嬢様、食事の準備ができております」
 言いながら、ルーシーはクローゼットを開ける。
 クローゼットには、綺麗な衣装がずらりと掛けられていた。
 ルーシーはその中から白いドレスを取り出した。
「お嬢様、これに着替えてください」
「イヤ。もっと可愛いのがいい」
「服は、このようなドレスしかありません」
 六花は渋々白いドレスを受け取った。
 ぶつぶつ文句を言いながら、ワンピースを脱いで白いドレスに足を通す。
 ルーシーがドレスの背中のボタンを留め終えると、
「食堂にご案内いたします」
 六花は、大きな溜め息を突く。
 いくら抵抗してもルーシーは全く気にしないだろうと思う。
 ルーシーが寝室のドアに向かって歩き出した。けれど今は、食事をする気分ではない。
「いらない」
 と言うと、グググ――、と六花のお腹が鳴った。
 ルーシーが足を止め、振り返る。
「お嬢様、お腹は正直ですね」
 この人、めっちゃ、むかつく!
 心の中で叫んだ。
 しかし空腹に負けてしまった六花は、すごすごとルーシーのあとをついて行くしかなかった。

 船内はかなり広く、廊下を100メートルくらい歩いた。
「こちらが食堂です」
 ルーシーに案内されて入った部屋は、天井に大きなシャンデリアがあり、百人は入れそうな広いパーティ会場だった。
 その中央に、長いテーブルがひとつ、ポツンと置いてあった。
 そのテーブルには、既に、10人分くらいの肉料理、野菜、スープ、それとフルーツが所せましと並べられていた。
「す、すごーい! こんな豪華な料理、初めて!」
 六花は、テーブルの椅子に駆け寄って座ろうとしたら、ルーシーに止められた。
「お待ちくださいお嬢様。私のボスがお見えです」
 すると、食堂の奥のドアから、モーニングを着た紳士的な男性が現れた。
 黒髪のオールバックで耳の先が尖っている。目は切れ長で顎は細い。背は高く190センチはありそう。
 見た目、40代後半の初老のその男性は、六花と反対側の椅子まで来ると、嬉しそうに微笑んだ。
 六花は、この人が誘拐を指示したのかもしれない。と思う。
「お初にお目にかかります。アミラ様。私はオースティンと申します」

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