侵略少女エクレアさん(1)
高校生活初めての夏の、とある日曜日。
来週から1学期の期末試験が始まる。
僕、佐々木アルトは、初めてできたクラスの友達と、僕のアパートで試験のための勉強会をすることになった。
そう、僕は今、ひとり暮らし。
実家は遠くの田舎で高校がない。そのため、中学を卒業するとみな都会の高校へ行く。
通いの人もいるけれど、僕はアパートを借りることにした。
ピンポーン。
ドアチャイムが鳴った。
誰だろう? 勉強会は午後1時からのはず。今は午前11時51分。まだ、1時間以上もある。
新聞の勧誘かもしれないけれど、もしかして、勉強会に参加する友達が早く来たのかもしれない。
そう思って、僕はアパートのドアを開けた。
「はい」
「やっと見つけたわ! アルト! 地球侵略はどうしたのよ!」
いきなり、怒鳴られた。
ドアの前に立っていたのは、真夏の太陽を物ともせず、仁王立ちで僕を睨んでいる見知らぬ少女だった。
金色で輝くような髪、濃い茶色のリボンで結ばれたツインテール、白のTシャツに黒のベストを羽織り、チェック柄の赤いミニスカートという格好は、かなり目立つ。
歳は僕と同じ、15歳くらいか。整った目鼻立ち、細く長い眉、丸く大きな瞳、透き通るような白い肌、ミニスカートからスラッとのびる脚。
初対面の僕に『地球侵略』などと、訳のわからないことを言い放ったこの少女は、間違いなく、自分は超能力や魔法が使える、と思い込んでいる中二病の美人さんである!
アパートには塀がないので、前の道路からは僕の玄関は丸見え状態。
道行く人々が、両手を腰にあてる派手な格好のこの少女をチラチラと見ながら通り過ぎる。
は、恥ずかしい……。
そんな僕の顔を見て、ツインテールの少女がニッと笑った。
しかし、このバリバリの中二病少女に僕が怯むことは決してない!
確固たる決意と自信を持って、少女に向かって言葉を放つ。
「君、だれ?」
ツインテールの少女が、開いたままの玄関の前で、目を丸くしながらポカンと口を開けて固まっている。僕の言葉がよほど意外だったようだ。
「えっと、もう一度聞きます。君は、誰でしょうか?」
「はぁ? 本当にわからないの? あたしよあたし!」
あたしあたし詐欺ですか?
その、あまりにも馴れ馴れしい態度に、僕はムッとして、少女を睨む。
「なに……じろじろと見ているのよ。は、恥ずかしいじゃない」
少女はプイと横を向く。
いやいやいやいや、君に見とれていたわけじゃ、ないからね! しかし困ったな……。 あと1時間もすれば、友達が来てしまう。今、この女の子を部屋に入れたら、間違いなく、ヘンな誤解をされそうな気がする。用件を聞いて、早く帰って頂こう。
「あのですね、忘れたもなにも、僕は本当にあなたを知らないのです。で、用件はなん……」
「もう、これだから。たった3年ほど会っていなかったからといって、幼なじみの、あたしの顔を忘れるなんて、ホント! あんたはどこまで『バカ』なのよ!」
今度はバカ呼ばわりされた! 確かに、玄関の表札には『佐々木歩人』と書かれている。アルトという車みたいな名前は、全国的にそう多くはないと思うけれど、僕は断言する!
「すみません、人違いです!」
深くお辞儀をして、僕はドアを閉めようとした。けれど、ドアは閉じなかった。少女の細い脚がドアまでのびて、ガッツリとドアが閉じられないように防いでいた。
「……本当に忘れたの?」
少女は強い陽を浴びた、まばゆい髪をなびかせて、哀愁を漂わせる瞳を見せた。
顔の表情と脚の行動が、矛盾していませんか?
ふと、アパートの狭い軒先を見るとキャリーケースが置いてあった。それは少女のものと思われる、1週間の宿泊には十分耐えられそうな、ピンク色のどでかいキャリーケースだった。
ヤバイよ。この女の子、家出少女だよ。1学期の期末試験をぶっこいて、夏休みが待ちきれず、おしゃれして、どでかいキャリーケース持って、あこがれの都会に出てきたはいいけれど、あまりお金は持っていないから、適当に同年代の高校生を見つけて、宿泊を頼み込む。新手の家出少女だよ。
こんなヤツと一緒にいたら、絶対に大きな事件に巻き込まれそうだ。やっぱり帰って頂こう。
僕は力いっぱいドアノブを引いた。
でも、やっぱりドアは閉じない。
「あの――、脚、じゃまなんですけど」
「アルト! あたしを見捨てるの!」
その大きな声で、買い物途中のおばちゃんたちが一斉に立ち止まり、僕のアパートを注目する。
「心配して、はるばる地球まで来たのに!」
あなたのその設定には、ついていけません!
とは言っても、もしかしたら中学生の時の、友達の友達の友達かもしれないから、名前くらい訊いておくか。
僕は大きく深呼吸をして、気を落ち着かせる。
「あのですね、お名前を訊いてもいいですか?」
待ってましたとばかり、ツインテールの少女は精悍な顔つきとなり、
「あたしは、イプシロン星系・ザラアース所属・銀河系統括部・第11区東方本部・侵略部、エクレア・シュークリッド! 地球侵略の諜報員よ!」
と高らかに宣言した。
目眩がした。中二病全開だ。しかし僕は、少女の脚がドアから離れた瞬間を見逃さなかった。
ドアノブを握りしめ、思いっきり引く!
少女の精悍な顔が崩れ始める。
完全にドアが閉じられた瞬間、ドンと、おそらく少女の額がドアに激突した衝撃音を、僕は確認した。
「こら――! 閉めるな! ドアを開けろ――! これはもしかしてアレ? 任務放棄? そうなのね! アルト! あんた、やっぱり任務を放棄したのね! 任務放棄は軍法違反よ! 今すぐに開けないと、公務を執行するわよ! ドアを壊してあんたを拘束するわよ! それでもいいの?」
ドンドンドン! ピンポンピンポンピンポン!
ドアを叩く音とチャイムの音が、アパートの室内に鳴り響く。
断言する。
僕は、中二病の外国人的な美少女は知らないし、知りたくもない。
アパートのドアの横にある台所の窓から、買い物途中のおばちゃんたちが不信の眼差しを僕の部屋に向けて、ヒソヒソ話をしている姿が見える。おばちゃんの噂話は、音速を超えて広がる……。
「わかった! わかりました!」
僕は悪い噂が広がることを恐れて、再びドアを開けた。
ツインテールの少女は、背を丸くして膝を抱えていた。
勘弁してくれ……。これじゃまるで、僕が彼女を振った、悪者にみえるじゃないか。
「もしもし……、えっと、お名前、なんでしたっけ?」
少女が顔を上げる。綺麗なおでこが赤く腫れていた。
「エクレア!」
甘いお菓子みたいな名前だな。
「エクレアさん、狭く汚い部屋ですが、お茶でも飲みますか?」
エクレアの丸い大きな瞳に、涙が溢れ出てくる。
「うん!」
「佐々木歩人って、なかなか地球人っぽくていい名前ね。自分で付けたの?」
「親です!」
これがエクレアが宇治茶をすすった最初の感想だった。
100グラム千円もする高級茶だぞ! お茶の感想を言うのが礼儀でしょ!
背筋を伸ばして、凜とした姿勢で正座するエクレアは、二口ほど宇治茶をすすったあと、卓袱台に湯飲みをそっと戻し、僕の部屋を興味深そうに観察を始めた。
僕の居間兼台所には、勉強机に本棚、単身者用の小型冷蔵庫、それにメインテーブルの卓袱台が、ところ狭しと置いてある。テレビはない。ゲームはスマホでできるので、中学の頃からテレビは見なくなった。奥の部屋は万年床の寝室。秘密の部屋だ。なんぴとも侵入してはならない。
1DKだけど、ひとり暮らしには快適な空間だ。
しかし断言する。
アパートを借りた理由は勉学のためであり、決して、女の子を連れ込むためではない!
今回のこれは僕の意思ではないから、事故としよう。うん、これは事故だ。
和菓子をほおばるエクレアに、僕はいろいろ訊きたいことがある。
「あのですね、エクレアさん、正直に答えてくださいね」
和菓子を口に放り込んだあと、すぐに宇治茶をすするエクレアは、無言で首を縦に振る。
「まず、出身はどちらですか?」
「アルトと同じよ。幼なじみでしょ」
「……そうですか。では次の質問。あなたの本名は?」
「エクレア・シュークリッド。何度も言わせないで」
「では、どこで日本語を覚えたんですか?」
「そんなことしないわよ。自動翻訳よ。脳に埋め込まれた万能自動翻訳機・有機チップが自動翻訳してくれるのよ。アルトもそうでしょう?」
う――ん、そうきたか。脳に埋め込まれている設定だと、自動翻訳する有機チップを確かめることができないな。ここで矛盾を突こうと思ったけど、失敗した。
「……わかりました。では、どうやって地球まで来たのですか?」
「宇宙船・アクシオンよ。当然でしょ」
「……その、ア、アクシオンは今どこに?」
「秘密よ。アルトにもこれだけは言えないの。そういう決まりでしょ?」
おっ! ここは論理的な矛盾が出そうだな。メモしておこう。
「次の質問です。エクレアさん、ここに来た目的は?」
「地球侵略。アルトもそうでしょう」
へ――、割と普通の設定だな。
「どうして地球侵略を?」
和菓子を3つ、ペロリと食べ終えたエクレアは、頬にアンコをくっつけたまま、真顔になった。
「自然が豊かな地球は今、全宇宙から狙われているの。あたし達ザラアース人の他にも、異星人が入り込んでいる。なかには次々と地球人を襲う過激な連中もいるわ。あたし達の目的は、そんな異星人を追い出して、穏便に地球をザラアースの植民星にすることよ」
「なんか、真実味のある設定ですね」
「真実味? これは真実よ! アルト、さっきからわかりきったことばかり訊いて、ヘンよ! あんた、頭がおかしくなったんじゃない?」
いや、あなたに言われたくない。
エクレアは湯飲みを持ったまま、唇を尖らせている。
逆ギレされたか。ここからはもう、直球でいこう。
「落ち着いてください。エクレアさん、千歩ゆずって君の素性を信じることにしても、僕の名前はアルトだけど、君の幼なじみじゃないし地球侵略の任務も知らない。僕の実家は田舎の農家で、今年の4月、横浜に引っ越してきたんです。だから僕は君を知らない」
エクレアはしばらく僕をじっと見つめたあと、大きな溜息をついた。そして、「疲れた」と呟いて、卓袱台の脇にゴロンと横になった。
無防備な姿で。
おい、僕をカボチャか大根のように思っていませんか? これでも健康な男子なんですよ!
そのまま、10分ほどの静寂な時が流れた。
僕はなんだかエクレアが哀れに思えて、それ以上質問することを止めていた。
机の上の時計を見ると、午後12時40分を示していた。
勉強会の時間が近づいている。クラスの友達が来る前に、エクレアには、アクシオンとかいう宇宙船に帰って頂こう。と思ったその時、
「ねぇ、アルト、覚えてる? 3年前、至上最年少で地球侵略の諜報隊に選ばれたことを。あたしは止めたのよ。でもあんたは、絶対に行くって言ってきかなかった。地球勤務は2年、2年であんたは戻ってくるはずだった。……でもあんたは戻って来なかった……。なぜ?」
「いや、なぜと言われても……」
だからさっきから、地球侵略など知らんと言っているのに。
「本部の、あんたの今の状態、知ってる?」
「いや、……知らないけど」
エクレアは、天井を向いたまま力なく答える。
「アルト・ハインブリッド、行方不明よ」
行方不明……。 それって、エクレアの幼なじみのアルトは、死んでいる可能性が高いってことか? いやいや騙されるな。これはエクレアが作り出した設定だ。危うくエクレアの世界に飲み込まれるところだった。
突然、エクレアがクククッと両肩を揺らし始めた。すべからく両脚もばたつかせ始める。
「……???」
どうしちまったんだ? 異星人に宇治茶を飲ませると、笑い出すのか?
壊れたように床で笑い転げるエクレアを、冷静に観察する僕。
不意に、エクレアは勢いよく身体を起こした。
「うわっ!」
のけぞる僕。
そのままエクレアは、ヒョイと僕に顔を向けると、ドン! と思いっきり両手を卓袱台に叩きつけた。
「アルト! もう安心よ!」
僕は不安だ!
「あたしがアルトを発見したもの! 早速本部に『アルト発見!』の連絡をするわ。あたしの地球侵略の任務は一旦終了。アルトを本国に連れ帰る方が優先されるのよ。良かったわね、アルト!」
エクレアの瞳の中に星マークが現れた、そんな感覚に襲われるほどエクレアは嬉しそうだ。
ちょっと待て。本国って、イプシロン星系のザラアースとかいう惑星で、エクレアの故郷のことか?
エクレアはスカートのポケットからスマホにすごく似ている通信機を取り出した。
すっげ――、スマホに似ているんですけど、エクレアさん。それとも、ザラアース製の通信機が、たまたま、スマホに似ていただけ、なのだろうか? まぁ、通信機の機能を考えたら、その形状はどの星もそんなに変わらないのかもしれない。もしも、そうだとしたら……。
エクレアは、ニコニコ顔でスマホに似た通信機の画面に、ピコピコと指を走らせている。
「ちょ、ちょっと待った!」
僕は本能的に身の危険を感じてエクレアに飛びかかった。
本部への電話を阻止するためエクレアの両の手首を掴み、そのまま押し倒す。
エクレアの手から、スマホに似た通信機が滑り落ちる。
もしも本当に、エクレアがイプシロン星系のザラアースから来た異星人だとしたら、ここで本部に連絡されると、僕がエクレアの幼なじみのアルトではない、ことの誤解を解くこともできずに、一瞬のうちにザラアース星へと連れて行かれて、一生をその惑星で過ごすことになる。なぜかは知らないけれど、僕の隣には幸せそうなエクレアがいる。
そんなイメージが僕の頭の中を駆け巡った。
「アルト……」
エクレアが、虚を突かれたような声で僕の名前を呼ぶ。
卓袱台に置いてあった湯飲みが床に転がる。湯飲みに残っていた宇治茶がゆっくりと床に広がり、エクレアの手首を握りしめている僕の片手へと到達する。
熱さなど感じない。だんだんと、心臓の鼓動が早くなる。
とっさのこととはいえ、僕は自分のとった行動に驚いてる。そして、エクレアの潤んだ瞳と淡いアヒルのような唇が、堅牢な僕の理性を崩壊させていることに、気づく。けれど一番の驚きは、エクレアが何も抵抗しないことだった。
僕はいったい、何をしようとしているのだろうか……。
「あれ? アルト、額の傷、どうしたの?」
「あっ、これ? これは去年、雷に打たれた時の傷なんだ。中学校のグラウンドで、ひとりでサッカーの練習をしていたら、僕に雷が落ちた」
嫌なことを思い出した。
1年前の7月初旬の日曜日。
僕の田舎は、蒸し暑い日が続いていた。
その日、僕は暑さにもめげず、朝から中学校のグラウンドでサッカーの練習をしていた。
「おい、アルト! サッカーなんてやめて、早く家に帰りなさい! ゲリラ豪雨がくるぞ!」
僕はその声で足を止める。
雨がっぱを着た先生が、自転車にまたがって怖い顔で僕を見ていた。
僕のクラスの担任だ。
視線を中学校の校舎に向けて、大時計を確認する。
4時半をまわっていた。
「すぐに帰ります!」
担任が自転車をこいで走り去るのを見届けると、再びサッカーボールの上に足を乗せた。
遠くから、ゴロゴロと雷の音が聞こえる。
急に、ザーッと雨が降り出した。
中学校のグラウンドには、もう僕ひとりしかいない。
みんな帰ってしまった。
それでも僕は、だれもいない、白いゴールネットを睨む。
二週間後、県大会がある。
中学1年生の時、友達の誘いで軽い気持ちでサッカー部に入った。
田舎の中学校で生徒数が少ないので、サッカー部も人数あわせのためだった。
サッカーは初めてで下手くそだった。他のサッカー部の部員は言葉には出さないけれど、僕を残念そうな顔で見ていた。
そんな状況、僕は耐えられない。絶対にうまくなって、見返してやる!
気合いを入れて、ゴールネットめがけて、シュート!
その時だった。
あたり一面が白く輝いたかと思ったら、ハンマーで殴られたような衝撃が頭に走った。
僕に雷がおちた。
幸い一命はとりとめたけれど、その時の傷が、額と背中に残った。
しかも体が自由に動けるようになるまで、約2ヶ月のリハビリが必要だった。
カッコ悪い。
そして、僕はサッカーを辞めたんだ。
「よく助かったわね」
エクレアが言った。
「うん、急所は外れていたみたいだし、近くの家にちょうど医者が来ていて、そこで応急処置をしてもらったんだよ。それで助かった」
「ふーん、あんたは昔から、運だけは良かったわよね」
それ、ほめているのか?
ピンポーン。
ドアチャイムの音。
「佐々木君、香月だけど」
げっ! 香月さんだ。ちょっと来るのが早くないか? まだ1時まで15分もあるよ。
クラスメイトの香月美央さんは、明るくてクラスの中でも人気の女の子。
今日の勉強会の参加者のひとりだ。
「佐々木君に言われたとおり、カレイの煮付け弁当買ってきたよ。私もお弁当買ってきたから、一緒に食べようよ。あったかいうちに!」
……香月さん、僕が頼んだのは『カレーの煮卵付き』だよ。
いやいや、そんなことは今はどうでもいい。
「エクレアさん!」
「何?」
エクレアは僕から目をそらした。頬を赤らめて。
「エクレアさん! 今すぐ、ここから『瞬間移動』して頂けませんか?」
「はぁ? そんなこと、できるわけないでしょう?」
「異星人なのに、できないの? 瞬間移動?」
この時僕は、心からエクレアが本物のザラアース星から来た異星人であってほしいと、思った。
香月さんだけには、この状況を見られたくはなかった。
そんな気がしたからだ。
「できないわよ。それに、異星人って、どういう意味よ? あんたもここでは異星人じゃない」
だから、僕は地球人だから。ネイティブ地球だから。
仕方がない。今日の勉強会は中止にして、香月さんには帰ってもらおう。
エクレアは、僕のお願いがよほど気に入らなかったようで、
「アルト、いつまであたしに乗っかっているのよ! 早くどいて!」
と言って、いきなり力任せに僕を振り払おうとした。
その時、悲劇は起こった。
僕の体重を支えていた両手と両脚がバランスを崩し、行き場を失った僕の両手がエクレアの金色の髪に絡みついた。
その直後、僕の顔とエクレアの顔が接触……。
「佐々木君? 返事がないけど、いないの? あっ、鍵があいてる。まったく――、不用心だな――。入るね」
へ?
ドアの鍵、かけ忘れていた?
僕の実家は農家だ。隣の家まで100メートル以上も離れている。そんな田舎では、日中は玄関に鍵をかける習慣がない。当然、そこで生まれ育った僕は、物騒な横浜にひとり暮らしを始めても、ドアの鍵をかけ忘れることが、時々ある。
ドサッ。
何かが、床に落ちた音を確認した。
その音で、恐る恐るエクレアから顔を持ち上げる。
エクレアの顔面が、真っ赤に染まっていた。
僕は状況が理解できない。
いや、理解したくない。けれど、この状況を放っておけるほど、僕の神経は図太くできていない。
勇気を出して、玄関口を確認する。
吸血鬼に、全ての生き血を吸い取られてしまったように、呆けている少女がそこにいた。
学校指定の赤い制服リボンを胸につけて、真っ白な半袖のシャツにグレーのプリーツスカートという格好のその少女は、小柄でショートヘアがとてもよく似合う香月美央さん、本人だった。
香月さんは理由はわからないけれど、学校以外でも制服を着ていることが多い。
「香月……さん」
ビニール袋から無残な姿ではみ出しているお弁当と、香月さんお気に入りのシロクマの人形の付いたスクールバッグが、玄関口の床に転がっていた。
「ななな、な――んだ、ささ、佐々木君、かかか、彼女さん、いいい、いたんだ。はははは。そそ、それならそうと、いい、言ってくれれば、よよ、良かったのに。あ、あはははは。……私、お邪魔だったみたい!」
香月さんはそう吐き捨てて、持ってきたお弁当とスクールバックを置き去りにしたまま、逃げるようにその場から走り去ってしまった。
悲劇は更に続く。
「佐々木、今、香月が物凄い勢いで走ってどこかに行っちまったけど、どうしたんだ? 一緒に試験勉強、するんじゃなかったのか?」
げっ! 篠原! いつも学校には遅刻すれすれに来るくせに、今日は早いな!
次に、玄関口に現れたのは、僕の遊び友達の篠原修造だった。
今日の勉強会参加者、最後のひとり。
ドサッ。
玄関口で、首元の白シャツのボタンを大胆に外して、突っ立っている篠原が、スクールバックを床に落とす姿を、僕は確認した。
「わ、わり――。時間間違えちゃったかな? わり――、わり――」
篠原は頬を引きつらせながらも、何も見なかったそぶりで落としたスクールバックを拾うと、
「じゃ、がんばれよ!」
とエールを僕に送って、ドアを閉めた。
解かなきゃ、解かなきゃ、解かなきゃ、解かなきゃ!
「誤解を、解かなきゃ――――――――――――――――――――!」
僕は急いで身体を起こすと、香月さんと篠原を追うべく玄関口に向かって、その一歩を踏み出した。
ベキッ!
なんか踏んだ。
足元には、無残な姿で二つに折れ曲がったスマホにすごく似ているエクレアの通信機があった。
や、やっべ――、壊しちゃったよ! 異星人の通信機、壊しちゃったよ! なんか、高そうだよ! 弁償できるかどうか、わからないよ!
「あ、あ、あの――、エクレアさん?」
「ア、ル、ト……」
エクレアさん、何ですか? その甘いささやきは? これは事故で、あれも事故で、全てが事故なんですよ!
「あんたの気持ち、受け取ったわ」
あ――、やっぱり、勘違いしているよ。こっちも誤解を解かなきゃ。
「エクレアさん、これは事故でして……」
「事故?」
エクレアが首を傾げて、僕の足元に視線を移す。
「あ――! あたしのスマホがぁ!」
あれ? 今、スマホって言いました? スマホって言いましたよね。やっぱりこれはスマホだったのですね。どうして、イプシロン星系のザラアースから来た異星人が、スマホを持っているのでしょうか? エクレアさん?
「ハードバンクの分割、まだ、残っているのに――!」
ハードバンクの分割? 今、ハードバンクの分割って言いました?
やっぱりエクレアは、地球人だったか! それも、かなり重傷の中二病患者だ。
これ以上エクレアにかかわると、マジで、とんでもない事件に巻き込まれそうだ。
とにかくエクレアには帰ってもらって、まずは、香月さんの誤解を解かなきゃ!
「エクレアさん、その、このスマホは弁償します。君の住所を教えてください。あとで連絡します。だから……、ごめんなさい! やっぱり僕は君の設定には、ついていけない。だから、もう、お願いだから、帰ってください!」
思いっきり、深く深く頭を下げて、僕はアパートを飛び出した。
早く香月さんを見つけなきゃ。
誤解を解かなきゃ!
香月さんの自宅は確か荏田南町だったはずだから、こっちの方だ。
クラスの緊急連絡網で知ったうろ覚えの香月さんの住所を頼りに、僕は走り続けた。
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