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たぶん発達グレーだったけど特に困らなかった幼少期の話

タイトルの通り、私の幼少期は今であれば「発達グレー」と先生に目をつけられるような、変わり者だったと思います。
なんなら今でも、精神科に行ったら診断名つくと思います。薬も手帳も福祉サービスも、今特に求めてないから行かないけど。困ったら行く。

それでも、母親からの評価は「育てやすかった」だし、マイペースと言われ続けながらも、誰も支援が必要だなんて思いつかないような子どもでした。
私自身そんなに困らず大きくなりました。(中学校では多少人間関係につまづいた)。
主に小学校時代を振り返り、なんでだろうと考えてみました。

①こだわりが一般的な子どもの興味の対象に向いていたから

犬にはまった時は犬の育てかたの本で覚えた雑学をずっと先生に話し続けていたし、アニメにはまれば友達がお泊まりにきていても同じ回をひたすらテレビで流し続けて、とうとう「それもういいよ」と友達がうんざりしてしまう。そんな子どもでした。

自分の好きなものと相手が好むものが違うとわかっていなかったし、今相手がどう思っているかを考えることが難しかったんです。
語りたいから語る、見てほしいから見せつける。知ってほしい気持ちが止まらない。(今ならSNSで誰にも迷惑かけず好きなだけ語れるんですけどね。良い時代です)

こうなると、周囲の子とのコミュニケーションに支障がでてしまいそうなものですが、幸い、私のこだわりについて話せる相手がきちんとそれぞれ見つかっていたので(犬ブームなら犬を飼っている子に、漫画にはまったら自分と同じく「りぼん」や「ちゃお」を読んでいる子に、といった調子で)、なんとかクラスに馴染むことができていました。

こだわりの対象が古い戦隊ものとか時計とかだったら、きっとこうはいかなかったでしょう。まわりの子と共通の話題にできるものに興味が向いていたのはラッキーでした。

好きなものが同じならとりあえず仲良くなれる。子ども同士の人間関係ってシンプルでいいですね。


②目立つタイプの問題行動は起こさないから

私の特性はどちらかというとASDが強いです。椅子をガタガタさせたり突っ伏したりと落ちつきはなかったのですが、それも多動というよりは体幹のなさから来るものだった気がします。(協調性運動障害についてはまた書こうと思います。発達障害者に多いらしいですね)。
立ち歩いたり、衝動的に口を出したりしないで授業中おとなしく座っていることはできていたので、先生からしたら特に困った子ではなかったのでしょう。

加えて、小学校までは授業終わりにその日の授業の範囲だけ教科書を読めば、とりあえず勉強についていくことができていました。暗記物はそのやり方が通用しないので、47都道府県や漢字の書き取りでは再試、居残りの常連でしたが。
授業の邪魔もせず成績も特別悪いわけではなかったので、学校生活ではそこまで叱られることなく過ごしていました。

あえて言うなら、小学校の合唱で耳を塞いで怒られていたとか、音痴な子に「歌わないで!」と言ってしまい喧嘩になったとかはありました。今だったらきっとイヤーマフをつけて対応していたタイプの子だったと思います。

そういえば習い事のエレクトーン教室には、一時期耳栓をつけて通っていました。
小学校の芸術鑑賞会も、年齢の低い頃は行きたくないとしぶり、いちばん後ろで担任に付き添ってもらうことで参加することができてました。
聴覚過敏や合理的配慮なんて言葉がまだ一般化する前の時代だったのに、今思うと本当にありがたい。


③面倒見のいい女の子が友達にいたから

ASD女児の命運はこれにかかっているかもしれません。学校生活において、臨機応変な対応が求められた時、まわりを見て動かなければいけない時、フォローしてくれる友達がいるかどうかは重要です。

人間関係についても、コミュニケーションが不得意で誤解を生みそうになってしまった時、横から助け舟を出してくれる子もいたりしました。
母親からは、友達を大切にしなさいと常々言われていましたが、こう思い返してみるとそう言いたくなるのも心底納得です。

「○○ちゃんは嫌われているからあんまり仲良くしないほうがいいよ」「○○ちゃんは前○○ちゃんをいじめていたんだよ」など、 スクールカーストを上手くやり過ごすための情報も教えてくれます。
そのうえで、なんでそんなこと気にして動かなきゃいけないんだと我が道をいくのが発達キッズなんですけどね。

結局、受動的な性格だったのと、あとは運なんでしょう。身も蓋もねえ。書ききったから公開するけど中身ないなー。
またそのうち改めて書き直したい。

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