私がなりたいのは「ただいるだけでいい存在」
自己対話をすると、ふとした瞬間に自分の価値観が現れる。
ああ、私ってそう考えていたんだなって。
頭の中で考えていると、そういう言葉って浮かんでもすぐに消えちゃって。
だけど、noteに書くと残るから発見しやすいよね。
今、私は転職に向けて、前にも増して自分に向き合い中。
今日ね、退職願を提出して、今の職場には意向を伝えてきた。
しばらく仕事から遠ざかるという選択もある。
転職という選択でもいい。
とにかく、ずっとないものにしてきた自分の気持ちに少しでも触れたいし、そうだったんだねって理解してあげたい。
理解した上で、自分がやりたい方向に背中を押してあげたい。
小さな私と向き合う
先日書いた記事で、私は小さいとき、何していいか分からなくて不安だったってこと、言葉にした。
これね。
小さな私、めちゃくちゃ不安だった。
何をしたらいいのかわからなかった。
誰かに教えてほしかったし、助けてほしかった。
でもやっとわかったなぁ…私が欲しかった答えってないものだったんだって。
自分で感じ考えて、自分なりの答えを探していくものなんだってこと、やっとやっとわかったよ。
これをしたらオッケー、正解、間違いないってことができると安心した。
それは多分、そうしていると周りが平和だからだと思う。
悲しい顔を見ないで済んだ。
自分が正解を求めていたわけじゃない、正解すると周りが安心するからなのよね。
その積み重ねが他人軸メインの私を作り上げたのかもしれない。
自分の気持ちよりも周りの評価、反応、それがいつの間にか私の行動の軸になってた。
内面が他人軸になっていてもね、それは見えないし、誰も困らない。
困るのは自分で、苦しいのも自分で。
だからわかってもらえなかったなぁ。
でも当たり前だったんだ。
だって、苦しいって話したら、その後の相手の反応でまた自分が苦しんでしまうんだもの。
そっと察してもらうしかなかった。
でもなかなか自分のことわかって、察してくれるなんてないよね。
察してほしい…それが叶わなかったから、私はそっと察して欲しい人を見つけては察してあげて、自分の代わりに優しくしてきたんだなぁ。
自分で自分を守る
夫に相談をしてきて初めてわかった感覚がある。
それは自分のことは自分で守るということだった。
私は自分って責める存在だったの。
できていないと、誰かに言われる前に自分を叱咤してた。
まぁ、それも一つの自分の守り方よね、誰かに言われることを避けるためにやっているのだからね。
でも自分に監視役がいる状態で、外の世界にも監視役がいると苦しい。
実は以前の職場で苦しかったのは上司の監視。
周りは聞き流しつつうまく対応してたんだけどね、私はできなかった。
怒られて、自分でも責めて、苦しかったよ。
冷静に考えたらさ、言われたことって結構、理不尽な内容だったりしたのよ。
ハイ、って聞いて、ああいつもの不機嫌の延長かなって思っていれば良かったことだったの。
でも私は自分のできなさを責めた。
責めたら自分の居場所がどこにもなくなっちゃった。
そんな話をいつだったか、夫と話したことがあったのね。
で、そのとき知ったの。
夫「自分はそう思わないかもしれない。
でもとりあえず対外的にはすみません、で通す。
私のせいじゃないのに、私はちゃんとやったのに、理不尽、悲しい、悔しい、その気持ちはね、自分で包んであげるんだよ。
嫌だったよね、悲しいよね、ムカつくよね、うんうんってさ。
それが自分を守ること。
上司と一緒になって自分をダメじゃないかって責めたら、自分の気持ちはどうなるの?
ツライの当たり前だよ。
自分だけは味方でいてあげようよ。」
なるほど、自分は味方なんだね。
そんなふうに考えたことなかった。
人の評価に依存的になる理由
夫の話を聞いていて、私はハッとして。
そうか、自分のコントロールって自分を監視することじゃないんだな。
誰が何を言おうと、自分だけは自分の味方でいるってことなんだ。
それができるから、対外的には感情的にならずに冷静でいられるし、理不尽なことがあっても反応しないでいられるんだね。
私、自分が自分の味方でいられなかったから、何か言われるとつい相手に正論で反論したり、敵認定したりしてた。
もちろんそれなりに大人だから、トラブルにならない程度には抑えていたけど、態度にはダダ漏れてたと思う。
そして、私の代わりに私を認めてくれる人を探してて、わかってもらえるとほっとした。
自分で自分を認めてあげられないから、誰かにしてもらうしかなかったってことだよね。
だから人に依存しやすかったんだ。
自分の中でそんなことが起きてたこと、ずっと気づけなかったなぁ。
今の気持ちを言葉にする
今、私が悲しくなること。
必死に言葉にしたSOSに気づいてもらえなかったこと。
私の想いは異質なのかな、と思ってしまう空気があること。
悪い人ではないのはわかるけど、その距離感、その軽さ、ちょっと傷つく。
よく見ないで、聞かないで、先入観だけで判断しないでほしい。
多分、人とのやりとりでの些細なところなんだよね。
ちょっとした仕草や言葉遣い、人を人と思ってない態度。
私がもう少し自分を大切にできて、人の態度なんて気にならないわ、どんな人とでも大丈夫よってなったら、こんなことに振り回されずに日々いられるのかな。
だけどさ、よく色々経験するごとに図太くなっていくものだっていうけど、そうなりたいって思ってなれるものでもないよね。
今の私はそういうところが気になっちゃうの!で、いいよね。
それはもしかしたら、子どもたちに対してそういうことを大切に考えているから、気になってしまうっていうのもあるかもしれないしね。
自分を守ってきたものを手放し、そこにいるだけでいい自分へ
言葉にしながら色々と回想してた。
特に仕事に関しては、患者さんといい関係が築けたり、いいカタチで終われたり、一緒に頑張る一体感をお互いに大切にできたり、体の変化が生活の変化に直結していて感謝されたり、思い出すだけで心が熱くなるような経験ばかりが頭をめぐる。
その経験は私の体の一部になっていて、長いこと私の生きる意味でもあったような気がする。
人の役に立った経験、ワクワクするような一体感、それは宝物なのだけど、時々そんな人間でいなきゃいけないような気がして、過去の栄光にしがみついていた部分もあったのかな。
そんなことを考えていたら、ふと学生時代の寮母さんの言葉が頭をかすめたよ。
寮母さんはつらかった学生時代の心の支えだったし、第二の母なの。
第二の母「私はね、若いとき何度も自殺したんだ。
もう死んでいておかしくないの。
でも助かったの。
生きなさい、といって助けてもらった命だからね、そのときに私は人のために生きようと誓ったんだよ。
ここの寮生はみんな私の娘。
何かあったらいつでも頼っていいんだよ。」
私は何度かお部屋に行って、ご飯をごちそうになった。
寮母さんも色々あったんだろうなって思った。
何を話すわけでもないんだけど、一緒にいてくれる存在ってありがたかった。
ただ、いてくれるだけでよかった。
そう、ただ存在しているだけでよかったの。
そばにいるだけでいい。
心強いの。
うん、何かしてもらわなくても、何か言ってもらうわけじゃなくても、そこにいて、なんでもない話をしたりして。
うん、そうなんだ。
そう考えたらさ、私だって、仕事で患者さんやスタッフに対して、家庭で夫や子どもに対して、そんな存在でいられたらいいのかも。
なんか初めてそんなふうに考えられた気がする。
ちょっと成長したかもね。
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