自己理解に至るまで
だんだんと自分のことがわかってきました。
自分のことを理解するって、結構時間がかかることなんですね。
私はそれを全く意識せずに生活してきたので、この2〜3年で一気に押し寄せた感じです。
まぁ、そういうタイミングなんでしょう。
今日の気づきを言葉にします。
子どもの特性を実感するほど自分と重なる
子どもの発達特性がわかって、自分の発達特性に気づく親って少なからずいらっしゃるようです。
自身にも生きづらさがあって、それが深ければ深いほど、療育などでの発達の勉強をしていて自分にもピタリとハマると気づくというか。
まぁ、私もそのひとりです。
私の場合、最初は子どもに自分のようなつらい思いをさせたくないところから、発達の勉強に一生懸命になりました。
学んで子どもたちに実践し、その意味を体験するたびに、今までの自分の常識や当たり前がくつがえされましたよね。
同じ体験をしても、その状況の解釈が全然違ってくるからです。
例えばスーパーで癇癪を起こした子どもに対して、自分のしつけが足りなかったと解釈するのか、この子の発達レベルに合った準備や対応になってなかったと解釈するのか、というような。
結局、その子が今できないことはできないのです。
首も腰も座ってないのに、立って歩くことなんてできないように。
大人都合で子どものできてないことをしつけで解決しようという一方通行なものは、上手くいかなくて当たり前で。
どれだけ子どもの「今」を理解して、その子に合わせた対応を考えられるか、結果をあきらめられるか、なんですよね。
でも私はそういう育て方をされてこなかったし、そういう考えも視点もなく。
だから子どもの問題行動は私の育て方が悪いって結論に至ることが多くて、すごく苦しんでました。
おそらく、発達の凸凹や遅れがある子どもを育てているママなら、そう結論づけてしまいがちなことっていっぱいあると思います。
だけど社会に子どもを合わせるばかりを考えるのではなくて、まずは子どもの発達に合わせてあげる工夫や知恵に頭を使いたい、今はそんな感覚でいます。
でもね、療育で学んだ考え方や対応をしていると、こんなんでは社会に通用しない!という反発したくなる気持ちにもなるんです。
それくらい社会は厳しい…いや実際に経験してるから、実感としてあるわけですよ。
だから、それは甘やかしてるだけじゃないのか、少しは社会に揉まれたらいいんじゃないのかって。
だって、私がそうでした。
そうやって痛い思いをするから、自分がどうにかするしかない、と覚悟せざるを得ない。
そういう経験だって大事だと思って。
まぁ、そう考える時代だったかもしれないですよね。
努力が美化され、競争意識が強かった気がします。
そして痛い経験からいろいろと学べ、と。
失敗は成功のもとなんだと。
間違いではないけれど、その考え方、やっぱり発達特性がある子どもにはちょっと危険な気がします。
失敗から正しく学ぶって、めちゃくちゃスキルがいることだもの。
私は失敗から正しくなんて学べませんでした。
自己否定が強まり、他人軸で生きていく道を選ばざるを得なかったので、生きづらくなる一方でした。
社会にうまく合わせる部分と自分を優先する部分と、自分らしくいられて生きづらくもないバランスが大切だなぁと思う今日この頃です。
私はついそんな自分の体験を元に、自分の子どもの子育ても考えてしまうんですね。
私がこうだったから、私はこう考えてきたから。
それも大事だけど、それだけだと偏ってしまいます。
自分の経験だけにとらわれてしまうと、目の前の違う人間である子どもや今の時代の流れを見過ごしてしまいます。
私は主治医の言葉でハッと我に返ったり、子どもの態度で思い直したりしました。
そういう思考のリセットの機会が、私には絶対に必要でした。
そんなふうに、今までの自分の考えや価値観と向き合ったり、自分自身と向き合ったり、ここ数年はそんなことばかりしてきたんです。
今までの自分の限界を日々感じていたので、もう必死で。
そんな感じだったので、自分はどんな親でいたらいいのかの軸も持てず、目の前で起こることにワタワタしながら対応し、子育てはすぐに結果の出ないことばかりだから、それで良かったのかと悩むという繰り返し。
でもね、子どもたちの特性と深く向き合ううちに、今度は自分の困り感の根底に、どこの発達特性が関与しているかがわかるようになってきたんです。
あれ、私が困ってたことの原因ってこの特性が影響してる?って。
そう、私だって困ってるのは現在進行形。
仕事でも、子どもの担任との相談や支援機関との連携などでも。
人との関わりがグンと増え、さらに相手を選べるわけではないこの状況で、自分の気持ちの把握とバランス調整、相手の話の理解、全体を把握すること、子どもの困り感を理解すること、お互いの折り合い地点を探すこと、適切な表現や伝え方、などなど、一気にいろんなスキルが必要になりました。
私は仕事で人と関わっているから大丈夫、と思っていたのに、全然足りない。
というか、むしろ上手くいかないことの原因と向き合わざるを得なくなりました。
結局、私も自分の特性とうまく付き合えていないひとりだったんですよね。
子どもたちと向き合えば向き合うほど、私は自分の特性を意識せずにはいられませんでした。
次の段階は自分を否定する
最初は子どもたちの未来のために、母親としてできる限りのサポートをしたいという気持ちから、子どもたちの特性と向き合いました。
ところが、向き合ううちに自分の特性が明確になってきたわけですね。
そうなったとき、無意識に起きたのがその特性をうまくあしらえてない自分を責めたり、ダメなやつだと落ち込んだりすることでした。
これはしばらくつらかったです。
そういうときって、そう自覚するような現実がやってくるんですよ。
自分の困り感がなんらかの発達特性からきてるんだろうな、という認識のときはそこまででもないのだけど、ADHDとハッキリした途端、私の衝動性や不注意でたくさんトラブルが起きるんです。
まぁもしかしたら、トラブル自体はそんなに多くなかったのかもしれないし、いつもと変わらなかったのかもしれないです。
でも意識した途端、全てがそこにつながってしまうようになって。
ああ、私はこの特性でこうなってるのか、と自覚せざるを得なくなって。
それは新しい視点でもあったし、自分を知って対策を考える第一歩でもあるわけですよね。
それなのに、私はそんな自分がダメだと思ってしまいました。
こんな状態で子育てなんてできるわけない、仕事でも私はダメダメなのを周りは見て見ぬ振りをしてるんだろう、と勝手に考えて、現実に怯える日々が続きました。
その次は、自分を大切にする努力を
自分の特性を否定することは、子どもたちの特性を否定することにもつながるし、明るい未来にもつながらない。
それがわかっていたので、私は否定している自分をどうにかしたいと思いました。
簡単にはどうにもならないけれど、自分を大切にする意識と行動の積み重ねがいつか自分を変えてくれるはず、と考えるように。
そのタイミングで始めたのがこのnoteです。
このnoteでは最後は必ず自分を励ましたり、次につながるような言葉で締めくくろうって思ってました。
だから私のnoteは慣れてきた今よりも、最初の頃のnoteの方がとても前向きで元気いっぱいな気がします。
noteを活用したことはとっても良い方向に向かって、私は自分で自分を励ませるようになってきたし、頭の中で考えているよりも自分を客観視できることがハッキリしました。
上手くいかなかった→自分で自分を励ます
そんなことが、時間をかければなんとかできるようになったんです。
でも時間は有限だし、子ども3人のフォローやスケジュール管理、書類管理、お金の管理、家事、仕事など、やることは次から次へとあふれていて。
詰まってくると、パンクして、もう無理!!ってなることを繰り返して、やっと最近、自分に合っているペースはものすごーーくゆっくりなのだと自覚しました。
ひとつひとつちゃんと向き合いたいし、丁寧にこなしたいし、時間をかけて動きたいのだと。
それは仕事でも同じでした。
その中でわかった私を大切にすること。
それは、具体的には自分がやりたいとかやらなきゃならないと思っていることに対する時間を十分にとってあげること、それが難しいときには誰かを頼ったり、やらない選択をすることも考えて、全体のスケジュールを調整することでした。
同じく働きながら3人の子どもを育ててるあの人や同じく発達特性のある子どもを育ててるあの人、自分の母、Instagramに投稿しているあの人など、周りの人間と比べて、私も同じように頑張らなきゃ!と思うことではなかったんですよね。
自分を心からいたわる
子育てを通して、とても大切なのは何よりも「心を育てる」ことなのだと実感しました。
何かを成し遂げるとか、他人の評価を得るとか、そういうことよりももっともっと前に必要なことですよね。
そして、私も、自分の心を満たしたり、思いやったり、自分の気持ちと会話したり、そんなことができるようになってないのだと気づきました。
学校の点数を上げるために勉強するよりももっともっと大切にしたいことって、そういうことですね。
私は自然とは学べなかったなぁ。
おそらく母も。
それを学ぶキッカケをくれた子どもたちには、ホントに感謝です。
私はそういうことを自然に学べない特性を持って生きてきたことに、改めて気付かされましたしね。
夫は知らないうちに当たり前のように知っていたことでしたからね。
そういうことって、実はたくさんあります。
私が気づいて夫に話すと、夫はうんうんと頷き、やっとわかったかと言わんばかりです。
そして、長男はすでにわかっています。
こんなにも脳のタイプで自然に学べることは違うのか、と実感しましたよ。
私はやっぱり注意障害の部分で、無意識に学べたことはとても狭かったし、暗黙には気づかないまま大人になったということなんでしょうね。
学校の勉強のように、学ぶことがハッキリとしていて、答えがあり、道すじが明確なものは得意だったのですけど。
今は自分の特性がある程度自覚できた上で、仕事をしています。
これが実践のいい場なんですが、結構レベルが高くて。
特に暗黙の部分はやっぱりわからず、人に聞いてばかりです。
それでも聞かないよりはいいので。
まずは自分が傷つくような結果にだけはしないであげたい、と自分のために頑張ってます。
もう、そこから。
不安で押しつぶされそうになることが多いし、実は明日もかなりの試練が待ち受けているのだけど、できることしかできないので、やるしかないと思っていますし、できないなら次の手を考えるまでです。
夫いわく、「みかんちゃんができないことは、フツーの人の大半もできないことだと思うよ。
大丈夫、できなかったらそのとき考えたらいいだけだよ。」
実際の私はどうかはおいておいて、そうやって大丈夫と自分に言ってあげられることが「自分を信じる」ということなんでしょう。
そう考えると、私は大丈夫なんて言葉、今まで自分にかけてきませんでした。
いつでもやらかすことが前提で、できる限りやらかさないように気をつけることと、やらかしたときには気持ちを切り替えて行動すること、それしか頭になかったです。
無理に頑張るよりも、できないことはできないでいい、それをどう帳尻合わせるかの方が大切ですね。
頑張ってきたことを認める
思えば私は、小さいときから劣等感が強く、ダメなやつと思われたくないって気持ちがずっとありました。
だから失敗すると自分を許せなかったですし、何に対してもちゃんとやりたいと思ってきました。
できなくてもいい、という考えはこれっぽっちもなく、努力が全てでした。
でもね、療育で学んだ考え方は全然違いました。
その子の発達や成長に合ったカタチというものがあって、その子らしさを尊重することが大事なんです。
できない部分はサポートしたり、やらない選択があって良くて。
結果、その子の発達や成長を妨げないことこそが、親にできることなんじゃないか、なんて思うようになりました。
だってね、その子のタイミングでググンと成長するタイミングってあるんですよね。
そんなときに思う存分成長できるような環境があればいい、それだけな気がして。
長男を無理に学校に行かせていたら、今の聡明な長男はいなかったと私も本人も思っているくらいで。
じゃあ私は?
そんな視点で思い返してみると、私はいっつも背伸びして、身の丈以上のことでも怖気付くことなく挑戦してきたなぁと思います。
頑張ってた。
でも自分の能力以上のことに手を出すから、失敗だってたくさんして。
でも誰のせいにもせず、自分を高めようと努力してきた気がします。
負けたくなかったんです、自分に。
なんていうとカッコいいけど、できない自分を認めたくなかったんだと思います。
そこまで自分を理解できてやっと、もういいじゃんって思いました。
私、誰の力も借りずに頑張ってきて、でも助けてほしくて、夫に出会えて、やっと心落ち着く時間を取り戻せて。
夫との関係づくりの中で、今までずっと満たしたいと思ってきた気持ちも満たすことができるようになりました。
お互いにお互いを大切にしたいと思っていて、どんなカタチならそれが上手くいくのかをお互いに探ってきて、やっと見つけられた距離感は心地よくて。
満たしたいところで思いっきり自分を満たそう、そう思えるようになりました。
目の前にあるすべてのことで自分を満たそうとするのではなくて、ね。
今までガムシャラ過ぎたんですね。
満たせるところで満たす。
信用できる人を心から信用する。
好きな人を思いっきり好きになる。
そう思えないことには力を抜く。
そういうメリハリが大事なんですね。
長い間の頑張りグセはなかなか抜けないけれど、これからは少しずつテンションダウンを心がけたいなぁ、と思います。
今後の私へ
一度注意を向けると、とことん納得のいくまで深めたい、落とし込みたい、そんな気持ちが強い私。
子どもと向き合うためには、自分と向き合うことが先決!と思って早2〜3年。
やっとここまできました。
どうしてもね、社会に出ていろんな人を見てきて、人を見る目も肥えているし、どういう態度や行動があまりよく見えないかもわかっている私です。
自分の劣っている部分、社会的に良くない行動など、自分のしていることを自分で許せないことはまだまだたくさんあるんです。
そんな自分が出てくるたびに悲しくなり、私はダメなやつだって思い込んでしまいます。
そういう思考のクセからも脱したいけど、長年のクセだものね、なかなか手強いです。
だけどもうね、できることをできる範囲でやって、できない部分は任せたりハードルを低くするなりして、カチコチな自分とはオサラバしたいなぁと思っています。
だからといって、どんなふうになりたいとか、まだよくわからないんだけれども。
まぁ、そういうのはゆっくりと考えたり感じたりしていけばいいですよね。
急いで決めるものでもない。
ただ、心地よい自分でいたいなぁとは思ってます。
どんなことがあっても「私だからね」で済むような。
ちょっと力が抜けたかな。
こうやって悩み抜いて次に進もうとするのも、私だから、なんですよね。
もういい加減、認めよう(笑)
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