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「周りの目」の影響力を手放す

先日、心が落ち着いていく記事を書いたけど、今は心落ち着かない日々に戻ってる。

環境に影響を受けやすく、厳しい感染状況のニュースや職場の雰囲気、友人とのLINEのやりとりで、あんまりいい感覚を得られていなくて、自分を自分でコントロールできてない状態。

もう少し自分らしくしっかり立ちたいって思う。

もしくは自然と入ってくる刺激を、事実以上に捉えず、モヤモヤにつなげないようにしたい。


そんなとき、「他人に言うことは自分に言いたいこと」という言葉を見つけたの。

ハッとしたよね。

子どもたちについ投げかけてしまう言葉たちを、自分にかけたい言葉と捉えたとき、自分の価値観や想いがハッキリするのかも。

そう意識しながら、子どもたちに自然と出てくる言葉を吟味する。


「ちゃんとしようよ」

「相手の気持ちも考えようよ」

「あとあと起こることも考えようよ」

「ルールは守ろうよ」


ガックリ。

「周りの目」の言語化じゃん。


「周りの目」への私の意識の偏り

私が子どもに発している言葉は、「周りの目」を言語化してるってハッキリした。

子どもたちの「自分のことしか考えてない行動」に対して、その視点も持とうよって。


まあ、そういう視点を持つことは大事だよね。

社会性を高めるためには、そういう視点もなかったら上手くいかない。

社会では自分のことと同じように、いや、場合によっては半分以上周りのことを考えて動く必要があったりするものね。


周りのことがわかったり、見えたりするためには、何が必要だと思う?

私は他人目線が必要だと思ってて。

それは、自分がされて嫌なことはしない、自分がされて嬉しいことはする、が基本なんだと思ってた。

でもね、子育てしてて気づいたの。

それは結局、自分目線を脱しない。

自分の感覚を相手にも当てはめようとしてるだけなんだ。


100%他人を理解するって不可能。

結局のところ、できる範囲で自分と相手を思いやり、どこかでは完璧には無理だっていう線引きをする必要がある。

いい意味でのあきらめと、わからないからこそコミュニケーションを大切にしようと思う気持ちが大切なのかな、と。


私はADHD特性によるものかもしれないけど、そういう視点がなかったの、特に学生のときは。

だって、学校に行っていて、勉強してたら文句って言われないでしょ?

自分のことさえちゃんとやっていたら、文句を言われないのが学生時代。

文句言われるのが嫌だったからね。

文句を言われないために動いてた。


「周りの目」を判断基準に動いていて、自分の意志なんて考えなかった。

こうすべき、が自分の頭の中にあって、それは自分の意志でも目の前の人が言った言葉でもなかった。

世間一般的な「周りの目」を自分の中に勝手に作り上げて、そうすべきだと思って動いてたにすぎない。

現実や現状から自分で判断して考えるのではなく、勝手に自分で理想像を作りあげ、それに忠実に動いていただけなんだ。


でも社会に出たら、答えって一つじゃなくなる。

テスト勉強のように、一つの答えを導くためにひたすら繰り返し勉強するのとは訳が違う。

ひとつの視点では行き詰まることが多くなる。

状況を把握したり、注意深く観察したり、周りの人のキャラクターや立場、空気を読んで自分の立ち位置を決めたり、今大切にすべき優先順位を考えたり。

その中で出す答えは、必ずしも正解とは限らないし、正解だから上手くいくってわけでもない。

その視点の切り替えをしなければならないことに気づけずに、私は失敗したの。

それが実習。

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大切なのは「周りの目」を意識しすぎないこと

実習では、私の思い込みと指導者の伝えようとしていることへの理解の不十分さ、それを補うコミュニケーションの不足が指導者との温度差やすれ違いを生み、上手くいかなかったんだと思う。

実際に社会に出る前に、それに気づける体験ができて、ブレーキが効いて良かったんだよね。

だけど、この「気づく」はひとりでは難しかった。


ADHDってね、私、「気づき」が難しい特性だと思ってる。

状況把握も苦手だし、その場面でどこに注意を向けたらいいのかがわからないし、向けた注意を他にも分散するのも苦手だし、気になる刺激にばかり引き寄せられてしまう。

気になる刺激が見えやすい相手の反応や表情だったりもするから、自分が起こしたことの結果だけは重く受け止めていたけれど、実際にどうしたらいいかはわからなかった。


次男を見ていると実感する。

いちばん怒られてる。

やることのさじ加減はできないし、相手を見て気づくとか、状況を考えてコントロールするとか、4歳の三男がなんとなくやれてることが5つ年上の次男の方ができない。


いいところもたくさんあるんだよ。

でもね、それが埋もれちゃうくらいあまりいいとは言えない目立つ行動が多い。

声も大きすぎる。

ついやり過ぎる。

本人も薄々わかっているんだけど、じゃあどうしたらそれが防げるかはわかってないし、周りもうまく伝えられない。

ただ、現状として周りを見て自然にブレーキが効かないから、つい親として「周りの目」を言語化したくなるのだ、と私は思う。


そしてそれは、実習で失敗して自分でなんとか気づき、常に自分に言い聞かせてきた言葉でもあるんだなってわかる。

私もね、何にも意識せずに生活していたら、どうしても周りの目や状況把握が弱くなってしまうのよね。

わかりやすい刺激にばかり反応しちゃう。

だから、常に「周りの目」を強く意識して自分にブレーキをかけているのだと思う。


その視点ばかりを意識してきた結果、いつの間にかそればかりが大事であるかのように、意識の中にドデンと居座るようになった。

「周りの目」ばかりが気になってしまってる状態に。

だけどさ、何事もバランスよね。

ちょうどいい加減ってあるんだよ。

今度はそれを意識的にやらないと、シングルフォーカス、つまり視点が狭まってしまうのがADHD脳のクセなんだ。

これが自分のめんどくさい部分だと思う。

いや、めんどくさいと言わず、丁寧に関わってあげたいところって言い直そう。


次男に足りないのは「周りの目」の視点だ、と感じてそればかり声かけしてたら、次男はどんどん自分を大切にする視点を失うと思う。

それは私が周りに言われてきた言葉が、いつの間にか、自分の頭の中で自分に言い聞かせる言葉に変わっていったのと同じこと。

ホントはさ、自分を大切にすることと周りの目を気にすることは同じくらいのバランスで必要なことじゃない?

それなのについ親として、今、必要と思える「周りの目」ばかりを言語化してしまうのよね。

もしくは、親も「周りの目」が気になっているから、そればかりが目についてしまうというか、ね。


そんなふうに、次男への言葉を吟味してたら、確かに自分の自分自身への声かけに気づけた気がする。

さっき「丁寧に関わってあげたい部分」だと言い直したように、もう少し自分へ丁寧に関わってあげよう、めんどくさがらずに。

そういうバランスの取り方って大切だ。

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「太ってる」ことも「周りの目」からの意識

「周りの目」といえば、最近気づいたことがある。

「ダイエット」は何のため?と向き合ったら、実は「周りの目」の影響の方が強いんじゃないかという気づき。


私が「走れるデブ」を目指したのは小学生。

デブってバカにされたくなかったから、せめて早く走れるデブになろうと思った。

勉強も頑張って、運動もできれば、文句言われないって思ってたからね。

私の原動力は「周りの目や声」だったんだと思う。

家でも太ってる、食べすぎはダメと怒られた。

その声がもし「どんなあなたでもかわいい」だったとしたら、私はきっと勉強も運動も頑張らなかったと思う。

その言葉はトゲでもあったけど、ある意味ガソリンでもあったんだよね。


周りの目や声を原動力として、今まで頑張ってきた私。

実は周りの目がないと一気にやる気を失う。

自分のためになんて、動いてこなかったの。

だから、人を動かそうとするときも「周りの目や声」を使おうとしちゃう。

でも子育てでそれを使っても、うちの子たちは動かないのよ。

心が動かないの。

心に響かないのよね。

自分がやりたい、と思ったことをやる。


そんな中で、私はやりたいって気持ちに火をつける環境や声かけの方が大切だと思ったのね。

でも、自分にそんな言葉をかけてこなかったわけ。

だからわからないのよ。

自分ってどんな言葉だとワクワクしたり、動きたいって思えるんだろ?

私は「やるべき、やったら喜ばれる」あたりでしか、動いてこなかったからね。

そして、今も。


私が今、かろうじて動けるのは仕事で喜ばれるから、に過ぎない。

それだけが支え。

だから仕事はやめられない。

そんな状況にハッとした。


わかってたつもりだけど、内なる自分の言葉っていうのは、なかなか変えられないものだね。

私は自分のためには動けない。


だから、常にダイエットが頭にある。

それは自分のためというよりも、「周りの目」を意識しているから。

こんなに健康的で、体重は重いけど筋肉はあるから重いと感じてはなくて、今でも走れるし、階段も1段飛ばし。

最近さらに太ってヤバいのだけど、抱き心地が良くなったって、夫からはかわいがられてて。

自分だけのことを考えたら、現状は何か太ってることで困ることってないのだけど、「周りの目」を気にしてやせなきゃって思ってる。


そこまで周りの目って大事?

プクプクがデフォルトでいいじゃん。

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「周りの目」を気にし過ぎることを手放そう

周りの目を気にするって、適度には必要だと思うのね。

特にさ、私は特性上やり過ぎるし、状況読めないし、突っ走るからさ、「周りの目」はやり過ぎるブレーキになる。

社会で自分が動くときは、かなり窮屈ではあるけど、それくらいの気持ちでやるのがちょうどいいんじゃないかと思ってる。


ただ。

それだけに引っ張られないようにしよう。

ちゃんと自分らしさは守ろう。

もう少し「自分らしさ」にも、目を向けよう。


太ってる?それが何か誰かに迷惑をかけてるとでも?

心の中ではそれくらいに思ってたっていいじゃない。

健康のためにはやせないと!って、あなたの健康とは関係ないじゃない。

そもそも健康って何?

やせなさいと言われるストレスは健康に影響を与えないとでも?


今、健康に関してたくさんの情報があるけれど、100%その人に合うとか効果が出るってものではないじゃない?

専門家の個別指導ならまだしも、世間一般に向けて発信されることって、合う合わないってあるよ。

一般的には肥満=生活習慣病にかかるリスクが高い、なんて言うけれど、一概には言えない部分もあるんじゃないかな。

健康と病的の境目って何?

考えるよね。


それって発達障害と特性のある個性的な人の境目って何?っていうのと、なんか似てる。

結局、障害っていうのは、その人の困り感なんじゃないかと思う。

もちろん目に見える障害もあるけれど、それを何かで補えて、その人らしく生きることができるのなら、それでいいわけで。

医師が「障害」を診断する理由は、その診断をすることで公的な支援を受けたり、自身で自覚してコントロールできることで「生きやすい、自分らしく過ごせる」ことを可能にするため。

障害を「生きる障害」にしないため。


そう考えるとね、医療技術が発展している今の日本では、健康の根本はストレスコントロールなんじゃないか、なんて思うのよね。

うまくいかなかったことは医療や福祉に程よく頼り、振り切らない程度にコントロールしていく。

障害とか、病気になったこと自体は振り切ってないと思っていて。

なったことで気づくこと、意識することってあるし、治療方法もある。

その中で、自分がどうありたいと思うか、どう生きたいと思うか。


もちろん医療でもどうにもならないこともあるんだけど、医療が全てではないし。

現状を受けて、自分は何を選択するのか、どう生きていこうと思うのか。


私は、何を大切にしてどう生きていくことを選択するのか。

「周りの目」は一度横に置いておいて、自分に問いかけたいと思う今日この頃。

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