今の私を受け入れて、新たなステージへ
私はまだまだ未熟なんだ。
でも足りない部分を頑張って補わなくていいんだね。
それを自分に許可できた瞬間、すごく解放された気持ちになった。
私、まだまだ成長しないと子育てできない、仕事ができないって思ってたみたい。
だからもっと自分が!って躍起になってたんだと思うの。
そんな自分を認めたら、ちょっとだけ感じる世界が変わった。
そんな感覚を言語化する記事。
足りない何かを努力すべきという想い
時代もあると思う。
私が育った時代はバブル真っ最中で、周りは上昇志向だった。
その時代にちょうど働き盛りだった世代の方と仕事で話をする機会が多くて、話をしながら感じたのは、その時期に上手く波に乗れた人たちはとても裕福で、その人それぞれに成功マインドがあって、それは時代や運も味方している感覚が否めなかった。
もちろんめちゃくちゃ努力もしたと思うし、成果につながる試行錯誤もたくさんあったと思うのだけど、それが成功につながる土台や環境も確かに存在していたと感じるというか。
でもそれを実感していなくて「努力が全て」を前面に押し出している人が多いような印象。
そして、影響されやすい私はそのまま受け取って
「努力しないと成功なんてできないし、上手くいってないときっていうのは自分の努力が足りないときなんだ。」
と勝手に思い込んでしまったと思う。
だからできないことに意識が向いて、できないことをできるようになるために努力を積み重ねてきた気がする。
確かに努力は必要。
だけど、どこに努力する必要があるのか、そこの判断のときに、何を材料にするのかということがとても大事なんじゃないかな。
私はつい、すでに成功している人の考えや社会の流れ、周りの人の意見、社会的な評価に影響されやすくて。
給料がいいから、一流企業だから、周りの反応がいいから、そういう尺度を採用しがちだった。
自分が喜ぶ未来のために、そんな尺度を採用したことはあったのかな。
仕事も結婚も出産も、自分がこなすべきレールの上にあって、それをこなせば自然と幸せが手に入る、そんな妄想を抱いていたように思うのよね。
ひとりひとり、幸せに感じる状況って違うのに。
もっともっと、自分がどんなことに幸せを感じるのかを追求してきても良かったんじゃないかな、なんて今さらかもしれないけど、すごく考えるのよね。
で、今からでも遅くないから、ちゃんと考えてみよう…今はやっと落ち着いて、そんなふうに思えるようになってきたんだ。
仕事をする意味
今、私が仕事を続けてる理由っていくつかある。
外せないのはもちろん、生活費のため。
やめたら間違いなく生活はアップアップすると思う。
だけどそれだけじゃなくて、やっぱり自己実現のためとか、自分の生きがいややりがい、人との関わり、自分の成長のため、などなど、いろんなエッセンスが含まれてる。
今、実は仕事のことをどう捉えるか、生活とのバランスをどう考えていくかでまた迷いが出ていて。
そんなとき、そんな自分とちゃんと向き合ってあげよう…今はそう考えられるようになってきたから嬉しいよ。
以前は自分の気持ちを置き去りにして、未来のためとか損得とかより家庭とのバランス取れるとかそんなことばっかり考えて判断してたんだもの。
それでね、辞めようかなという気持ちで今は仕事に行ってたりする。
だからって投げやりに仕事をするわけではなくてね、むしろめちゃくちゃ丁寧にひとつひとつをこなそうとしてる。
なんていうかね、今までは「人の役に立ちたい!」って想いが強くて、その想いというエンジンで動いていたのね。
私の生きがいとかやりがいはコレだ!と思っていて、目の前の人が喜んでくれることをひたすら頑張れるって幸せだって実感していて。
それはね、本当に幸せなこと。
でもそれしか見えてない自分も薄々感じてたの。
例えば、その想いが消化できない状況になると
「私、仕事をしている意味があるのかな?」
って悩んで。
まさに今もそんな状況で、自分のやっていることが自分でいいか悪いか判断できないでいる。
もちろんいいと思って行動してるのだけど、それが今の職場にとっていいことなのかはよくわからないという感じ。
それは私がその職場での長い歴史を知らないからだし、周りにとっての暗黙の了解が把握しきれてないから。
パートだしね、深入りしなくていいんじゃないっていう想いと、だけどできる限りのことはしたいという想いがいつもぶつかって。
時々コソッと聞いてみたり話してみたりはするものの、大抵は「無難な線」で様子を見ることにして仕事をこなしてきたのね。
それが今は無気力につながって。
別にいなくてもいい人間なんだし、それだったらもっと好きなことやりたいなぁなんて、フッと頭をよぎるわけ。
それで求人情報を漁ったりする。
もっと自分の治療技術を試せる場もあるし、人との関わりをしっかりと持てる働き方もある。
今の職場はどちらも望めないし、長く働くイメージも湧いてこない。
どうせ働くなら、実感を持って働きたいな、と日に日に募る想いがある。
40代の意味
ずっと私はプレイヤーで働いてきて、指導する立場には立たないできた。
もちろんそれは子育てとの両立でできなかったからなんだけど、そういう立場にもなってない自分を「自由で楽」だと思ったり、「年相応のことができてない」と思ったりする。
でもそういう立場があるかないかが大切なわけではないって、最近気づいたのよね。
自分がどの時期に差し掛かっているか、なのよ。
人は心の成熟とともに、想いや求めるものが変わってくる。
今の自分はどこにいるのか、というのが大切。
どんな立場であっても、自分の心がどういう状況にあるのかはまた別のことだから。
そうやって考えるとね、私は心がずっと思春期を越えていなくてね。
自己実現とか何かを達成することにこだわっていて、「自分が!」という想いから抜けられてなかったのよ。
子育てしていても、心のどこかでは「子どもの前に自分がもっと発達、成長しないと!」と思っていたし、子どもたちにカッコいい背中を見せるにはまずは自分が自分の足でちゃんと歩いていないと!と思ってきたからね。
それはもちろん大切なことなんだけど、もうそろそろそこを抜けてもいい時期なのでは?とふと感じたのよね。
そんな気持ちがチラホラと心の中に現れてきたとき、40代の意味をどこかで目にする機会があったの。
「40代=世話」
年代においていろんな意味づけがあって、その考え方もいろいろあるようだけど、私に響いたのはコレ。
世話。
もう自分のことは十分だよ、もっと周りに目を向けていく時期だよ、そんなふうに背中を押された感じだった。
どこかではわかってた。
子育てしながらも、心の中は自分のことで手一杯で、いつも悩むのは自分のあり方だった。
まだまだダメだ、と思うから、そこから抜け出せないというのもあったと思う。
誰がそんな私に
「もう十分なんだよ、今のままで大丈夫だよ。」
と言ってくれるのか。
そう、言ってもらえるのを今か今かと待っていたのかもしれなかった。
だけど、それは自分で自分に言ってあげるのが大切だったみたい。
その感覚は突然やってきた。
それは
「やりがいを手放す」
体験だった。
私は目の前の人に丁寧に向き合って、治療効果を出しつつ一緒に伴走していくことが私にとっていちばん大切なことで。
それがやりがいだった。
だからそれができないなら仕事をする意味がない、くらいの勢いでやってきてたの。
でもね、今の職場では、若い子たちはそういうやりがいよりも全体を回すことに必死にならざるを得ない状況があって。
私がそれを手助けできたらという想いは、転職してからずっとあった。
でも新参者が偉そうにそんなこと言えないと思ったし、自分が新しい仕事を覚えるのに必死にならざるを得ない状況もあった。
1年間封じてきたその想いがふと、ポンっと目の前に現れた感じで、周りの景色が違って見えたの。
私はただただ仕事をしてるだけでいい。
ひとつひとつ丁寧にこなしながら、周りの人間がどんなふうに考えてどんなふうに動いていてどんな想いを持っているのか、それを少しずつ知っていくだけでいい。
突然そう思えた感覚があって。
それまではやっぱり治療効果やひとつひとつの自分の言葉や行動にこだわりを持っていて、できるだけ自己実現を達成したいと思っていたのよ。
それが。
不思議よね。
先日も、なんか思春期を抜けたような感覚があって、言葉にしたのね。
これはウソじゃないなぁ。
それを抜けたから、次のステップがやってきたんだろうなぁ。
ポンっとスイッチが入っていく。
そういう意味では、私の実の父や母の方が若いかなぁ…まだ青春時代やってる気がする。
自分たちがやりたいことに素直に行動していて、子どもの成長をゆったりと楽しむ心には届いてないかな。
頭ではそうしないといけないって思って、意識して関わってくれてるのはわかるんだけど、してほしいのはそこじゃないんだよなぁ、と思うことが多々あるんだよね。
「40代=世話」というのはあれこれ世話を焼くことではなくてね、自分の世話を辞めるってことだと思うの。
もっと言うとね、世話しないとできるようにならない、成長していかないって思い込んでるのを手放す感じ。
もうね、自分に何かいろいろしてあげないといけない年齢ではなくなったよ、周りに対してもそうだよ、だけど目をかける、そんな時期だよ。
そんなふうに言われている感覚。
アレコレ口出すのが世話じゃなくて、そのまんまを受けとめてあげる感覚かな。
それを自分にも周りの人たちにもしていく時期。
40代ってそんな感覚でいていいのかも、そういう気づきだった。
いろんな40代があっていいんだけど、私にとっていちばんしっくりきた40代のカタチ。
自分や職場の後輩、子どもに対して、行動としての世話を手放し、目は離さないけど手は離す、そんな感覚。
そういう感覚に至ったらね、今の仕事は辞めようかなという前提で働くのであっても、ひとつひとつ丁寧にこなしたいという気持ちがブワッと広がってね。
むしろ「やりがいを持ってガッツリ向き合いたい」という強すぎる想いを手放せて、気持ちが楽になった感じがあった。
もう手放したかったんだね、私は。
そんなにも頑張らなくてももういいんじゃないって。
今できることは他にもあるし、優先順位だって変えたっていい。
ただ言われた仕事を丁寧にこなすことに価値がある場合だってあるんだから。
いろんな視点で物事をみる
そんなふうに凝り固まってた思考が少しずつほぐれていくのを感じている今日この頃。
前はあった切迫感みたいなものが、少しずつ手放せていて、私は私でいいんだよって気持ちが積み重なっていってる気がするよ。
何をするのにも、私が考えてやりたいって思うんだからいいんじゃないって言えてるんだ。
「コアが好きだからピラティスを学びたい」これも言葉にしたら、すごく特別なものになって、今はすぐに資格を取ることよりも、何度も通って感覚を強固にしていこうっていう考えに変わってきた。
そう、行動の意味だって、自分なりの意味があっていいんだよね。
こうするのが正解ってないんだから。
カラダを見るときもココロを見るときもね、まずは目の前に現れていることについて向き合うでしょ?
だけど、そこをちゃんと確認したらね、一気に引きで見るようにするのよ。
全体をね。
自分全体と、周りの環境と。
そして時間軸でも大きく見るの。
今と未来、そしてまた今に戻ってくる。
たくさんの視点で今を見る。
見るのは今。
だけど、そのベースの理解と向かっている方向も一緒に確認したいじゃない?
だんだん現実の捉え方とか世界の見方とか、そういうのがわかってきて、自分がシューーーッて熱が冷めていってね、そんなにエネルギー使って生きなくても大丈夫だよーって言えるようになってきたんだよね。
私らしい40代のあり方
もう私は大丈夫。
そして周りも大丈夫。
だから今は私の気持ちに素直に生きながら、周りの人たち人たちのこともよく見て理解していきたい。
そんな感覚。
そして、やっぱり体は正直だからね、40代なら40代の変化があるわけで。
ホラ、荒川区はこんなふうに教えてくれてるよ。
荒れ狂う思春期の心を脱したら、歳相応の体と心との付き合い方と向き合いたくなってきたよね。
私はコアを大切にしたいという軸は変わらないけれど、それを軸にしながらも今の自分の体に起こっていることに目を向け、体の声を聞き、生活していきたいなぁと思うよ。
明日は久しぶりの家族で断捨離デイ。
ご褒美はお気に入りの「かごの屋」で食事。
私はいろんなものを手放して、もう少し今の自分を楽しませられるような環境を作ってあげたいな。
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