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13年間お弁当作っても、ある意味母を超えられない。お弁当にまつわるストーリーあれこれ。

長男が日本語補習校の幼児部(年中)に入園した時から、毎週末のお弁当作りが始まった。
平日の現地校(米国の公立校)に持って行くランチは、サンドイッチとかパスタといった簡単なもので済ませられるけれど、補習校用には日本式の弁当箱に日本式のお弁当を作る。
残り物のアレンジや定番の玉子焼き、オカズは何でも良いのだけれど、弁当箱の蓋を開けた時に、小さなときめきを感じてほしいと、愛情を注ぎ込む。

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思い返すと、小学校に上がる前後から、ジャガイモの皮剥きというミッションを与えられていた。
たくさんの来客が(母方の)祖母の家にやってくる週末に、大量のコロッケを作る下準備要員として、わたしと姉と従妹の3人に召集がかかるのだ。
女手ひとつで3人の娘を育て上げた祖母は、3人の娘の幸せを願い「三幸」という有限会社を立ち上げて、ありとあらゆる仕事に手を出していた。
後から聞くとたくさんの失敗もあったようだけれど、当時は全盛期ともいうべき頃で、毎週たくさんの料理を用意して来客をもてなしていた。
わたしの父がまだ起業する前で、我が家は特に貧しく過ごしていて、天邪鬼の父は、祖母が帰り際に私たちに持たせてくれる料理には一切箸をつけなかったこともよく覚えている。

そんな祖母を支えていた母は、幼い頃からずっと炊事を任されていた。
鹿児島で幼少期を過ごした母の料理は、すべて甘辛い味付けがベースにあって、いわゆる「ご飯がすすむ」メニューばかりだった。
もちろんレシピなど一切なかったけれど、どれもこれも味は抜群に美味しかった。

ただひとつ、母の料理には難点があった。
いわゆる「盛り付け」のセンスが皆無だったのだ。
貧しくて外食をしたこともないし、祖母から教わることもできなかった。
真似するための料理本も体験もないままだから、仕方なかったのだろう。
茶道を愛し、生涯茶の湯を学び続けた結果、おせち料理のような懐石は美しく仕上げていたのに、日常的なところでいうと、いわゆる大皿にドンと盛り付けるだけのスキルしかなかったのだ。

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ここでやっと、お弁当の話に戻る。
わたしたち姉弟は、義務教育の間はずっと給食が提供される学校に通っていたから、運動会や遠足といった行事の時だけ、お弁当を持って行く機会があった。
わたしは母の作る稲荷寿司が大好きで、特別な日の前にはリクエストをした。
タッパー(昔はそういう容器があった)を開けると、稲荷寿司と唐揚げが鎮座している横で、玉子焼きが申し訳なさそうに肩を並べていた。

想像してもらうとわかるけれど、それは「茶色いお弁当」だった。
栄養食品(いわゆるサプリのはしり)の仕事をしていた母は、栄養バランスにはうるさくて、ビタミンとかタンパク質とかの分量だけは常に考えていたはずだから、きっと底の方にレタスやブロッコリーが敷いてあったのだろう。
しかし蓋を開けた瞬間には「茶色い!」という印象しか持てないシロモノだった。



わたしはその頃から「お弁当は自分で詰める作業をする」と申し出た。
母は理由もわからずに「あら、助かるわ」と喜んでいた。
小学校2年生の時には、わたしは自分の「玉子焼きスキル」で母を超えたと自負していたくらい、いつしかお弁当のオカズも作れるようになっていたし、母がいない日はせっせと夕飯の準備もできるようになっていた。

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時を経て、わたしは高校生になった。
一つ上の姉は、電車を乗り継いで片道1時間半の高校に通い、わたしは自転車をぶっ飛ばして40分、遅刻ギリギリに校舎に駆け込むような毎日だった。
当然、朝はバタバタと支度をするので、母が再びお弁当を作ってくれるようになった。
そこで武勇伝のようなお弁当ストーリーが展開される。

その1:ある日、弁当箱を開けたら、白いご飯の上に、目玉焼きがひとつのっていた。ありえない。
関西出身の父の影響か、我が家の目玉焼きはソースで食べるのが通例だったけれど、そこにはソースもついていなかった。
やや堅焼きのそれ(カッコよく言えば、ターンオーバー)は、黄身がパサパサしていて、ご飯と一緒に喉を通すのも、ちょっと苦しかった。

その2:ある日は、カレー弁当だった。
学校に電子レンジなんて置いてない当時は、冷たく油の浮いたカレールウの中に得体の知れない塊(たぶんジャガイモ)を感じながら、冷たいご飯をかきこんだ。

その3:当然のように、茶色いお弁当が定番だった。
前夜に残した餃子がぺったり広がっていたり、煮物(=もはや肉はない)の汁が弁当箱から漏れ出たり、それはそれはシャレにもならない惨事だった。

その4:お餅弁当。
正月に残ったお餅が、磯部焼きとなって、弁当箱に入っていた。
海苔が蓋について、磯部焼きは半壊し、もはや原型をとどめないアメーバみたいになっていた。

その5:そして決定打ともいえる、大事件が起こった。
(この悲劇を、わたしと姉は同じ日に、東京都内の別の場所で、同じように体験している。)

弁当箱を開けたら、、、、、、何ものっていなかった。

いや、半分だけ、のっていた。

白いご飯の上に、こんにゃくとチクワ。
そして、開けた蓋の裏側にぺったりとついていたのが、はんぺんと昆布。

わたしたち姉妹は、これを「恐怖のおでん弁当」事件として、後生語り継ぐ事になる。

ありえない。
思春期まっただなかの女子高生のお弁当、白ご飯に前夜の残り物、おでんがのっているだけ。当然、華やかな色の存在は見つけられない。
工事現場のおじさんが時間短縮のためにかきこむような(失礼)現場のお弁当でも、もう少しひと工夫あるのではないか。

母の名誉のために、繰り返しておくと、味は美味しいのだ!
本当に、味は抜群に美味しかった。涙が出るほどに。

でもその日以来、わたしはお弁当詰め作業を、日々のタスクとして復活することにした。
どんなに眠くても、少し早起きして、お弁当を詰める。
もう蓋を開ける恐怖を味わうことはなかった。

お母さん、ごめんなさい。
貴女の料理は最高に美味しくて、今でも貴女の孫たちは貴女の料理を思い出に「ソウルフード」の話をします。
カレーコロッケ、肉じゃが、ビーフシチュー、お好み焼き、カナディアン(メニュー名の由来はまたの機会に)、きんぴら、小豆煮まで、私には超えられない最高の料理でした。
でも本当に、盛り付けのセンスだけは、あの世でもう一度練習してみてください。

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子供を持つ母となり、わたしはまたせっせとお弁当を作るようになった。
時差のある日本と夜中まで仕事して、ほとんど眠れないまま朝を迎えたとしても、弁当箱を開いた時の子供たちの表情を思い浮かべて奮起する。
もちろんそこには冷凍食品があったり、半世紀以上作り続けている玉子焼きがあったり、かなりマンネリ化しているのも事実。
お弁当を並べてインスタでお披露目している友人を見ていると、わたしのつまらないお弁当でごめんねと思うこともある。
それでも、蓋を開けた時にガッカリしないようにと、心を込めて詰め込み作業をする。

来月、末娘が日本語補習校を卒業する。
卒業式の日に、謝恩会をどうしようとか、卒業アルバムをどうしようとか、ママ友たちからのLINEが毎日飛び交っている。
子育ても自分育ても永遠に続くものだとわかっているけれど、長男の時から13年続いた日本式のお弁当作りストーリーだけは、少しおいとまをいただけるのが、何より嬉しい。

今となっては、母のお弁当武勇伝は、悲劇から喜劇となって、わたしたちの心の中で永遠に生き続けている。

お母さん、楽しい思い出を、ありがとう。










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