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結婚について考える

今年で母が私を産んだ年齢になる。

大学の学部の人は10/80人くらいが結婚したらしい。とてもめでたいことだし、何人かの結婚式にも参加し幸せをお裾分けしていただいた。

そんな話を実家に帰ったときに母にすると必ず聞かれることがあった。

「あなたはいつ結婚するとかちゃんと考えているの」

この言葉を言われる度に自分の内側のどこかにひびが入っていていくような感覚になり、返事をするには一呼吸置いてからでないと話せなくなってきた。

この感覚は未だに自分でもコントロールができないが、書きながら解明していきたいと思う。


自分が幸せだとその過程が当たり前と思い込みがち

私の母の場合

私の母はバブル終わりかけにわりと大手の会社に入社し、自分とは真逆の人と出会いおもしろ半分で引っかけ結婚した。(半分想像だが半分実話)
そして子宝にも恵まれ3人産むが、夫は単身赴任で月2回程度しか帰ってこずほぼ一人で子育てを全うした。
とてもおしゃべりで社交性も高く、聞けば学生時代はもてたとかそうでないとか・・・

言ってみれば人並みの幸せを一般的な速度で手に入れ、多少のもめ事は経験しているだろうがさして大きな困難にも遭わず、かつ周りの家族・友人も同じような過程をたどっているためそれが普通なのである。

母の感覚は母のものであり、それは否定されるべきものでないことは私もわかっている。
しかし、私がその価値観を受け入れがたくなっているのは、それを母が私に強要してくることが原因だと思う。

田舎あるあるだが価値観が凝り固まるとそれを他者にも強要するような節があると思う。
母に限らず親戚や友人の親たちなどがその良い例だ。
そして私の母はその気が強く自分の良いと思うものを人と共有したがるのだ。
母については書くと止まらなくなりそうだから、今後書いてみようと思う。

まあ要は”みんなが思い描く普通=幸せ”という価値観が根付いてそれにしがみついているのかもしれない


インスタグラムに囚われている

”普通=幸せ”はインスタグラムの中にもこびりついているように思う。

インスタグラムで投稿されるものは、抜粋された日常でその中でも特に幸福度が高いものが多い。
「旅行に行きました」とか「第一志望の学校に合格しました」とか
「ライブに行きました」とか
「結婚しました」とかとかとか

かく言う私も幸福度の高いものを投稿する。

他人の幸福を無意識にみているが、この行為を繰り返すと自分と比較し自分の足りないものを見せつけられている気分になる。それが段々と妬み・嫉みの様な感情に変わっていく時がある。

それでもやめられないのはインスタグラムはとても便利な情報探索ツールであり、直接会わなくても親しい人の近況を知ることができる場であるからと思う。

そんなわけで私たちは無意識のうちに他人の幸せを見せつけられ、自分には不足しているから手に入れなければならないと思い込まされいてるのである。


”普通”から逃れる方法

隣に芝は青く見えるがよそはよそだしうちはうち

これまで”普通=幸せ”の価値観について話してきたが、
この考えが全人類に当てはまるなんてみじんも思っちゃいない。

そもそも普通って何?って話だし、幸せって何?って話である。

趣味や好きなもの、これまでたどってきた人生の過程今過ごしているこの瞬間だって人と全く同じことはあり得ないし、
普通も幸せも人それぞれで良いと思う。

多少の個性は認められても、明らかな異質は変な目で見られるし出る杭は打たれる社会ってなんなんだろうね。
都心で浸透してきていても田舎に帰ると異物感がでてしまうことが多いと思う。
多様性といわれているが、全てが認められいるわけではない気がする。
頭では理解できても直接は受け入れられないものはある。それもわかる。

人と比較しても良いことはないし、それはそれ・これはこれで割り切れるようにしていたいと私は思う。

現実から離れてみる

しかし現実は厳しい。
会社で人と違うことはなかなかできないし、思ってもいないことを言わされたりする。
友達と話せば必ず、誰が結婚したか誰が子どもを産んだのか、すごいねー次は誰かな、なんて話したりしてしまう。


そんなこんなん言っても社会には属さねばならんし、友達ともコミュニケーションは取りたいと思っている。

器用な人はやり過ごしているが無理なものを抱え込んでも良いことはない。
なので、現実逃避することも大事である。

ファンタジー小説の主人公になりきって読書
カラオケで熱唱
何もない土地へ行き自然を感じる
部屋でただ無になる
山手線に乗り1周する

なんでもいい。一度現実から離れた方が、抱えていたものが案外小さかったり問題の答えがみつかったりするものである。

といっても結婚願望は人並みにある

感覚の正体

いろいろ言っても私も幸せにはなりたい。
死ぬとき寄り添ってくれる人がいた方が嬉しいから結婚もしたいし、自分のためだけに生きるのに限界を感じるから子どももほしい。

本当の幸せの答えがまだ見つけられないし、今思っていることが今後も同じかはわからない。

けど冒頭で言っていた感覚の正体って

・母という一人の人間の価値観を押しつけられることの苦痛
・自分でもわかっているのにわざわざ急かされる焦り

そんな気がする。

ふー。すっきり。


段々脈絡がなくなってきたけど、
価値観はそれぞれでいいし異質なものを集団で認めるっていわなくても、個々が認め合えるようになるといいなって話です。

最後までお読み頂きありがとうございました。


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