見出し画像

被虐待児?難病サバイバー?フリーランスの音楽家?みかげを知ってもらうためのヒント

人それぞれ、これまで生きてきたそれなりの年輪や傷があって。
わたしには重め(らしい)のバックグラウンドがある。
そんな話、初対面の人にはなかなかできないけれど隠しているわけでもないので、重めのバックグラウンドを話していこうと思う。

生い立ち、家族のこと

父と母、わたしの3人家族でした。
母は51歳で、わたしが20になった頃亡くなりました。
父は存命ですが、訳があって一緒に暮らすことができません。

難病:潰瘍性大腸炎の患者の娘として

母親が潰瘍性大腸炎の患者でした。16歳ごろに発症したそうです。その頃には母は地元である青森県を出て三重県に集団就職しており、社員寮なのかどうかは不明ですが、下宿先の人に付き添ってもらって大学病院を受診し、病気がわかったようです。何度も入院をしていましたが18のときに父と出会い20代前半で結婚、のちにわたしを出産。これには家族やお医者さんの反対もあったそうですが「こどもがほしい」という母の強い意志でわたしが生まれました。わたしが小学校に上がって3年生になる頃、母は大腸を全摘しました。しばらく人工肛門(ストーマというらしい)でしたが、その後バイパスなんとかという再手術をしてストーマではなくなりました。今は大腸を全摘することはないらしいけれど、当時の標準治療だったそうです。
わたしが生まれた当時、この病気は遺伝するものではないとされていたようですが、現時点では家族発症も認められるそうです。

白血病患者の遺族として

母はわたしが高校生になってすぐに急性骨髄性白血病を患いました。5年ほど闘病していました。骨髄移植・造血幹細胞移植など数回トライしました。

白血病の患者さんは、感染症などにより肺炎を起こして亡くなることが多いそうです。直接的な死因が白血病でないケースがよくあるということです。だから家族であるわたしや父は母が熱を出すたびにひどく心配していました。ですが、母の最終的な死因は白血病だったそうです。
最後のほうは血液中のわるい細胞がどんどん増えていって、抗がん剤も効かず。体中に腫瘍ができてしまい全身の痛みが酷く、衰弱しておりごはんを食べることができなかったため、骨と皮、という感じでした。骨に直接体重が乗るため、立っても座っても横になってもつらそうでした。
最期の1週間くらいは、麻薬の痛み止めを使っていたのもあり、幻覚と行き場のない倦怠感との戦いだったようです。最期は鎮静剤を使い、眠ったまま亡くなりました。8月4日、早朝のことでした。

虐待/機能不全家族のこどもとして

わたしと母は、モラハラ気味の父親に振り回されていました。
父は怒ると癇癪を起こします。
暴れて家中がぐちゃぐちゃになることもよくありました。幼い頃、母は友達関係をリセットしました。「人間関係リセット癖」ではないように思います。いま思えば、友達付き合いにより外出をしていたりして母の帰りが、父の帰りより遅いと父が暴れるということがよくあったので、それが理由かなと思います。
母から「父の機嫌を損ねないで」と目配せや合図が送られることがありました。例えば父がテレビを見ているときにわたしが話したいことがあって父と母、二人に「ねえ」と声をかけると母は咳払いをします。これが「喋らないで」の合図です。
その合図を守れないと父は「うるさい」と食卓をひっくりかえしたりするので大変でした。
わたしがいじめにあったときに、きいてほしくて同じように声をかけましたが、同じような合図があり話せずに、何日かしてようやく話せたと思ったら父は「そんなことあるわけない」私の話を信じることはなく、それよりもテレビを見たいからその話は気分が悪くなるのでしないでほしいと言われてしまいわたしは黙っていました。
母が入院をしたら、父がいるのに、わたしは遠くの親戚の家に預けられます。近場に預け先がないときは、学校を休んで青森の母の実家に預けられました。三重県と青森県では言葉が随分違うので、幼いわたしは青森県を外国だと思っていました。
ずっと、父だけが機能していないものと思っていました。ですが実際はそんなこともなく母も相当変わった人だったように思います。
わたしが家で大怪我をしたとき、傷口はぱっくり空いていて、脂肪の層が見えるような感じでかなり出血していましたが「近所の人に文句を言われたくない、あそこのおうちの人はおかしいと思われたくないの」と救急車を呼ばずしばらく放置をしていました。傷が大きいと痛みをさほど感じません。わたしはそう言い聞かせて我慢をしました。しばらくして病院へ。5針も縫ったのは初めてでした。

元いじめられっ子として

学生時代いじめられていました。
理由として、小学生の頃なんかだと、
いじめっ子が好きだった男の子とわたしが仲良く話していたこととかだと思います。
おそらくわたしは発達に問題があるし、3月29日生まれとまわりよりかなり遅い誕生日で、その分成長にも差が出ます。女の子たちのグループに馴染めず、男の子たちと外で遊んでいる、という状況だったこと。男女の差が出始める年齢である頃に、おそらく、恋なんかの話題で色めきだっている中で「男の子」と遊んでいる女の子は嫌われる傾向にあるようです。
学年があがると、一緒に遊んでいた「友達」の男の子に告白されたりすることもあり、その度「友達にはなれなかった」と悲しくなったりしました。
女の子にトイレに閉じ込められて授業に出られなかったり、教室に入ると舌打ちされたり、集合写真のわたしの顔に画鋲で穴をたくさん開けられたり。死ねと書かれたふせんがたくさん下駄箱に貼ってあったり。椅子に座って本を読んでいるときに後ろから殴られるとか蹴られるとかもありました。
小学校5年生くらいでめまいを感じたりしていて、中学に上がると、朝起きることが困難になったりして学校へいけなくなりました。

元不登校児として

中学1年から高校2年まで、学校にはほとんどいけませんでした。
朝起きられず学校に行けなかったり、登校しても気絶してしまったり。これが起立性調節障害や過眠症によるものだとわかったのはおとなになってから。いじめられるのが怖くて学校に行けないということはあまりなかったかもしれないです。体調が悪くてただただ辛い学生生活でした。

宗教3世として

母方の親戚(亡くなっている母を含む)が、某宗教の信者です。その宗教自体が悪いものだとは思っていないし信仰を否定するわけではありません。ですがわたしは宗教アレルギーなところがあります。
幼い頃、母親が入院していたときに親戚に預けられていて、その預け先の親戚が、地区教会のような場所で”会長さん”と呼ばれる人物に一日に数万円、週に3~4回お金を渡してお祈りしたり、「これを飲めば助かる」と母に食べさせるための神様からのいただきものみたいな生米を買ったり、「あなたを守ってくれる大事なお守り。肌から離してはいけないよ」と三角の布を渡されるとか(それも数万円するらしい)。そういうお金は払うけれど母の見舞いに行ったりしない親戚に不信感が募っていって、「なにかを信じて疑わない人たち」というのが怖くて仕方がありません。

病気のこと

いくつか病気をしています。子供の頃から耳鼻科系全般弱いです。

メニエール病患者として

小学生の頃からめまいや耳鳴りといった症状があり、22歳頃内耳機能の詳しい検査をしたりして確定診断されました。左耳のほうが状態が悪いですが両側メニエール病とのことでした。

気分障害・不安障害として

中学に入学する頃、うつ病と診断され、転院をして診断名が統合失調感情障害というものに変わりました。
後に親の虐待が発覚し、ひとりで病院に通うようになって統合失調症は誤診(親と同伴で病院に通い、無駄なことは言うなと言われ父や母しか話をしなかったためだと思われます)であり、PTSDや気分障害のようなものが残っているね、という説明を受けました。これまで自殺未遂や自傷行為を繰り返しています。

好酸球性副鼻腔炎/好酸球性中耳炎患者として

副鼻腔炎がひどく、鼻炎を悪化させるたびに中耳炎になっていました。
こちらも放置気味でしたが実家を出て調子が悪かったときに耳鼻科を受診後すぐに手術が決まり、内視鏡によるポリープ切除を行いその後病理検査をし
結果、好酸球性中耳炎・喘息を伴う好酸球性副鼻腔炎と診断され
今は難病指定を受けてデュピクセントという自己注射を打っています。

補聴器ライトユーザーとして

メニエール病で低音がかなり聞こえづらいのと、中耳炎による炎症を繰り返し聴力が落ちてしまったため、会話を聞き取れず聞き返すことが増えてきたので、集音機能似特化したイヤホン「Jabra enhance」を使用しています。便利です。

元・過眠症患者として

特発性過眠症というらしいのですが、朝起きられなかったり日中気絶するように眠ったりするのを3〜4年ほど繰り返していました。ナルコレプシーとかいろいろな病気の検査をしましたが原因がつかめず。職場で会話中に気絶したりするので大変でしたが、今は安定しています。

元・起立性調節障害の学生として

学生時代、朝起きれなかったり貧血のような症状があったのですが後に起立性調節障害であることがわかりました(当時もそういう話は出ていた)。今は他の病気の方が大変だし、起立性調節障害自体がおとなになったら治る場合も多いみたいなのでどうなったのかよくわかっていないです。

住まいのこと

三重県出身、18で家を出て20歳ごろ大阪に行きました。22歳頃に名古屋に越してきました。

田舎の観光地の出身者として

狭いコミュニティのあるタイプの田舎で生まれ育ちました。学生時代は近所の観光地である温泉でバイトしていました。ご近所同士の付き合いが深く、深入りされるのが嫌だと言う感じで母はそういうつながりが嫌いだったようです。最近気が付きましたがわたしはあんまり嫌いじゃないです。

元西成区民として

日本のスラム街といわれる西成区に1年半くらい住んでいました。
思ったより快適です。家賃安いし。
治安が悪いので警察沙汰のトラブルなどもありましたが(毎晩いたずらをされるのでそのたびに警察を呼んでいました)、なんとか幸せに暮らしていました。

現名古屋市民として

今は名古屋に住んでいます。地元に帰ることも考えましたが、なんせ家庭感情が複雑であることと、稀有な病気であることから大学病院に通える環境のほうが都合がよく、名古屋に住み続けています。(三重県の大学病院には限界があるようで、通院は名古屋の大学病院へ行くことを勧められる)

仕事のこと

今は働いていません。

無職として

今は働いていません。病気が落ち着けば働きたいと思っています。焦ってバイトをしては体調を崩すのを繰り返してきたので無駄にアルバイト歴があります。

これまでの活動のこと

いろいろなことをしてきました。

シンガーソングライターとして

幼い頃から音楽に触れてきました。高校卒業時に趣味でギター弾き語りで音源制作をしはじめて19歳で音楽事務所設立に関わりました。その後大阪に移り、難波駅前などで毎晩のように路上ライブをして日銭を稼いでいました。

当時の路上ライブの様子。

ありがたいことに聴いてくれる方がたくさんいて、通行の邪魔ということで大阪の路上ライブをしていた場所すべてで警察の方に「もうここでライブ活動を含む迷惑行為をしません」と行った内容の誓約書を書くことになり、もう大阪に居場所はないと思い名古屋に越して、それからはインターネットでの活動を軸にするようになりました。

被写体として

過去に被写体として活動していました。

当時の写真

アルバイトとして

WEB系の制作会社でバイトしたりしていました。立ち上げに関わった音楽事務所でもWEB担当者という位置づけでいろいろお仕事をしていました。

フリーランスとして

フリーランスとしてすこしだけ細々としたお仕事をしていました。
ライブ出演/バナー作成/チラシ作成/事務作業/ウェブライティングなど。

まとめ

現在も虐待の陰に苦しんでいたり、親がいないことでちょっと負い目を感じてしまったり、孤独を感じたり、病気の症状に悩まされたり
いろいろな苦痛がありますがなんとか生きています。

夢は生き延びること、すこしでも幸せに生きること、そこに歌やギターとか音楽があればいいなと思っています。

音楽とともに、死ぬときは「いい人生だった」と言えるように。
これらの経験が活きる「生きやすい場所」に出会えますように。
長文、読んでくださりありがとうございました。

この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?