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「すみません」の文化と「ありがとう」の文化 #4

長く海外で仕事をしていると、日本という国を外から見ることが多くなる。数えてみると、私が訪問した国は39カ国。アメリカやカナダなどの先進国は個人旅行で行ったが、アジア、中東、中南米、アフリカについてはほぼ仕事である。そして、プロジェクトとなれば、数年にわたり何回も同じ国に渡航して相手国の人と業務を遂行する。
だから、私の中で、日本の常識というものが、どこかズレている。同時に、「私って日本人だなぁ」と思うこともある。相手国の事情を理解しつつも、クライアントは日本政府機関なので、日本の常識とも向き合ってきた。
結果、まぁ常識に対してテキトウ(苦笑)。当たり前、って思うことがあまりない。達観とまでは行かないし、人が人である限り万国共通の正義もあると信じているし、一方で、たとえ人が何と言おうと自分なりの譲れない頑固な信条もあるのだけどね。

最近、日本の文化は「すみません」文化だなぁと思う。例えば、電車で席を譲ってもらった老人は「すみません」と頭を下げる。ご面倒をおかけしたことを謝罪するのである。お土産をもらっても「どうも、すみません」と、気遣いをさせたことを謝まる。

「あ、スマホが落ちましたよ」
と声を掛けられたとき、
「まぁ、すみません」
と答える人が多い。

何で謝るの? と思う。
そこは「ありがとう」でしょ、と思う。もちろん、すみませんが間違っているというわけではない。ただ、お互い「ありがとう」の方が嬉しいのではないかということ。「すみません」と言われるより、幸福度が高いのではないか、ということだ。

日本人の「ありがとう」と「すみません」を数えると、圧倒的に「すみません」が多い。「すみません」は様々な意味を含んでいるから、これひとつで万能なのだろう。でも、その「すみません」を「ありがとう」に換えたらもっと笑顔になれるのに、と思う場面が多々ある。

多くの国では、「ありがとう」なのに、なぜ日本は「すみません」なのだろうか。

日本ではしきりに自己責任論が唱えられる。だから、他者が自分に気遣ってくれるということは、己の未熟のせいだ、とでも思い萎縮するのか。同時に集団責任も追及されるから厄介だ。どうせ集団に所属しなくては生きられず、一人では何もできないのだから(現代では無人島の電気ガス水道のない場所で生きる人はほぼいない)、周囲のことに感謝して、明るく「ありがとう」と言える社会の方が楽しいのになぁと思う。

かく言う私も、日本では「すみません」を連発している。
他国では、「ありがとう」の場面でも、日本では「すみません」と言ってしまう(苦笑)。これは癖だろうか。あるいは東京だけ? 世代かな。

海外で仕事をするとき、最低限「ありがとう」の現地語だけは覚えることにしている。こちらは国際協力プロジェクトで行っているが、相手国の協力は欠かせない。彼らの力がなければプロジェクトは成り立たない。秘書やドライバーや、靴磨きの少年……私たちの現場の暮らしを支えてくれる全ての人に「ありがとう」なのである。

もっと喜び上手になりたい。だから意識して「ありがとう」を言うように日本でも心がけるようにしている。世の中、「すみません」があふれるより、「ありがとう」であふれている方が楽しい。自分も感謝し、そして、「ありがとう」と言ってもらった方が「すみません」と言われるより心が温まるのだ。
新型コロナに感染して復帰した方たちにとっても、「心配させてすみません」ではなく、「心配してくれてありがとう」と言える社会ならいいのに、と思う。

今日もいっぱい「ありがとう」を言おう。
心豊かな人生のためにも。

*写真は自分で撮影したものです。
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