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非小細胞肺がんになった母〜症状の変移〜

病状について、日記をつけていたわけではないので、記憶を辿って記していく。母と同じ病気の人であっても、おそらくその症状の出方、順番、種類といったものは個人差があることは、予めお伝えしておきたい。

それを踏まえたうえで、非小細胞肺がんになった母の病状の移り変わりについてまとめてみた。もしかしたら、誰かの何かしらの役に立つかもしれないという思いも込めて。

母の病気と現在の容体について

まず、母の病名は【非小細胞肺がん】と呼ばれるもの。肺がんにはいろんな種類があって、その中の一つだ。ステージは、4段階あるうちの最後『Ⅳ』。いわゆる末期と呼ばれる位置にいる。余命は3カ月〜半年。幅があるように見えるけれど、統計から算出されている数字だから仕方ない。

ただ、主治医の言うところによると、1カ月も持たないかもしれないとのこと。それくらい、母は命の瀬戸際にいるそうだ。

原発(始まりのがん)は、右肺上部。腫瘍の大きさは1cm程度。手術ができるなら、取り切れるくらいの大きさだ。しかし、ステージⅣは手術の適用外。ステージがⅢを越えると手術での根治は望めないとされていて、必然的に適用されない。

母の場合、仮に手術が適用されたとしても、体中切り刻むことになってしまう状態のため、いずれにしても手術は無理なのだ。というのも母のがんは、現時点ですでに全身に広がっている。主に左副腎、背骨、上半身のリンパ節(特に胸部に集中)、脳の硬膜に転移が見られる。

ここに挙げた箇所ですら一部でしかない。5月半ばに転移状態を調べるために受けたPET検査(読み:ペットけんさ/陽電子放出断層撮影)では、数えきれないくらいの転移が見られた。その中でも比較的大きいもの、がん組織が育っているものが、上記に挙げた箇所だ。

現れた症状とそれぞれの時期

母が確定診断されたのは5月下旬。疑いの診断を受けたのは、それより1カ月ほど前の4月中頃。これからご紹介する症状が出始めたのは、それぞれで時期が異なるが、早いものでは1月には現れていた。つまり本記事は、4~5カ月間の状態についてまとめたものになる。

症状は、本人が自覚したものを含めて羅列すると、次のようなものがある。初期のものから順番に挙げているので、次のような経過をたどっていると考えていただいて差し支えない。

1.味覚の変化

味覚の変化といっても、いきなり大きな変化があったわけではない。グラデーションがあり、徐々に変わっていった。

母はお酒を毎日飲む人だったのだが、まずお酒を飲まなくなった。お酒の味ではなく、アルコール臭が強く感じるようになり、美味さを感じられなくなったらしい。

それまでは、毎日夕方になると、麦焼酎を水割りで飲んでいた。それが日毎に飲む量が減り、一口も飲まなくなった。

次に、生魚の臭みを感じるようになり、タタキや刺し身を避けるようになった。

これが、だいたい年始頃。本人含めて、私が「なんだかおかしいな」と感じたが、味覚の変化は栄養状態によっても起こり得るため、様子見をしていた。お酒を全く飲まなくなるまでには、およそ1カ月程度の時間で変化が見られたから、2月頃にはお酒から離れたことになる。

2.食事量の減少

もともと大食漢ではないが、外食して定食一人前分はペロリと平らげる程度には食べられていた。それがどんどん食が細くなり、4〜5カ月程度で幼稚園の年中クラス並みの食事量にまで落ちた。

それでも自分で自分の食事を用意する程度の体力はあったため、毎日毎食、自分で作っては食べていた。

3.息切れ

1月の終わりくらいから、目立つようになってきたのは息切れ。5分も歩かないうちに、ハァハァと荒い息遣いをするようになった。

特に、息を吸うことに苦しさを覚えていて、吐くことはそれほど苦しくないようだった。血中酸素は計測していないため不明だが、私が見ても尋常ではない呼吸の仕方をしていたことから、この時期くらいから病院にかかることを勧めるようになった。

しかし、1カ月ほどでほぼ息切れの症状が見られなくなり、それまでと変わらない状態にまで落ち着いたため、本人はあまり深刻には捉えていなかった。

ところが、声枯れが出始めてしばらくすると、再び呼吸の乱れが目立つようになってきた。5月半ばには、ヒィヒィといった呼吸音が喋るたびに聞こえるほどになる。6月現在も、それは変わらないままだ。

4.声枯れ

息切れをするようになって一週間ほどしてから、声枯れが気になるようになってきた。といっても日中はそれまでどおりで、何の変化もない。だが、夜が近づくにつれて声が枯れるようになっていった。次第に声枯れの時間が長くなっていき、5月の半ばにはほぼ声が出なくなった。

四六時中、声が枯れてしまうようになるまで3〜4カ月ほど。枯れてしまうと、喋ることに体力を使うからか、徐々に呼吸の荒さも目立つようになってきた。

喉を酷使しての声枯れと違うためか、声枯れによる喉の痛みは一切ない。しかし、咳と痰が出やすくなるのか、よく痰切り飴を舐めるようになった。ちなみに痰の色は白く、炎症を起こしているときに見られがちな黄色味のある痰は全く出ない。

なお、声枯れは6月に入った現在も継続中。

5.背中の痛み

3月下旬か4月頭くらいだったか、具体的な時期は忘れたが、おおよそそのぐらいの時期から左半身の背中に張りを感じるようになってきた。この時点ではまだ病気のことは何もわかっていない。

最初に、左半身の腰に近い部分。それから少しずつ張りが上に広がっていき、次に側面に広がった。そこで留まらず、今度は右半身の背中が張るようにして痛みだし、左半身のときよりも広がり方は早かった。

右半身の背中も、まずは腰の少し上あたりから痛みが出始めて、上へ上へと広がっていった。そして、首の付根の隆椎(頸椎7番目)辺りに痛みを感じるようになっていた。

痛み方としては、まさに凝りというのが適当のようで、事実、母は「凝っている」と感じていたらしい。かかりつけ医にも、凝りがひどいからという理由で、湿布薬を処方してもらっている。

左半身の腰あたりから首の隆椎までの痛みの移り変わりは、10日前後くらいの間で起きている。なお、湿布薬を貼っている最中は、痛みは緩和されていたようで、あまり痛みを訴えることはなかった。

ただ、それも5月の半ばにもなれば、湿布だけでは痛みが取り切れなくなり、鎮痛剤を服用して痛みを抑えるようになってきた。鎮痛剤は、かかりつけ医に処方してもらったロキソニン。鎮痛剤が効いている間は、痛みはほぼ感じていなかった。

この痛みは、一旦次の股関節の痛みが出たときに緩和されたが、1週間もしないうちに再び痛みを感じ始める。6月現在では、鎮痛剤がなければ常時痛みを感じるほどになっている。

6.首の痛み

隆椎の痛みが出てきてから数日もしないうちに、首の側面(頸動脈のあるあたり)に痛みを訴えるようになった。首の凝りのような鈍い痛みだという。首を動かすことはできるが、どんな体勢を取っていても、拭えない痛みがそこにあるという感じ。

ただ、こちらも鎮痛剤の服用によって痛みは消失する。そのためか、あまり取り立てて痛みを訴えるというほどではなかった。

7.股関節の脱力感と痛み

この症状だけは、突然始まったような感覚がある。5月下旬、確定診断の日の朝のことだ。左股関節に痛みのような違和感を覚えていた母。その日の夕方には、体重をかけられなくなるほどの脱力感があり、支えがなければ歩けなくなってしまった。

その日の夜には、家の中を這って動くか、何かを支えにして立つ・歩くをしなければトイレにも行けないほどになっていた。翌日には、脱力感が多少残るものの違和感は和らいだ。しかし、それと入れ替わるようにして、しくしくとした痛みが出始める。体重をかけると鋭い痛みを感じることもあった。

前出のロキソニン(鎮痛剤)を服用して、薬が効いている間だけは痛みもなく過ごせる状態。その間は、階段の昇り降りだけがやや難しく、平坦な道は普段よりはややゆっくりめではあるものの一人で歩けるレベルまで症状は落ち着いていた。

ところが、そこから2週間も経たないうちに、ロキソニンだけでは痛みが抑えられなくなる。このときにはすでに【肺がん】の診断は下りていたため、頓服としてオキノームが処方されていた。オキノームを飲んで、ようやく痛みが緩和される状態だった。

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非小細胞性肺がん(ステージⅣ)で全身転移の診断をされた母。その母の闘病と介助記録のほか、患者本人や患者家族にとって参考になる情報をまとめています。ご購入いただいた代金は、母の介助費用に使わせていただきます。キーワード:非小細胞性肺がん、リンパ節転移、骨転移、脳転移、がん免疫療養、キイトルーダ点滴投与

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