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自分軸で生きる、勇気。

色んなものを棚卸ししている。

私が苦しかったのは、
間違って無かったと気が付いて、

涙が溢れ出す。

迷って悩んでも、仕方のない経験を、
沢山してきたと気が付いた、安堵の涙。

理由がわからない時は、
頑張れない自分を、とにかく責めた。

こんなことも耐えられないなんて、
なんて弱すぎるんだ!と、

言われ続けて来たことも…。

いや、苦しんで当然なんだよ。
苦しくない訳が無かった。
迷わない訳が無かった。

今はそれが、わかる…やっとね。

物事の組み立てには、
順序が要る。

だから、いきなり沢山の事なんて、
出来なくても、それが普通。

そんな時に、
どうしてあれも出来ないの?
これも出来ないの?って責め立てられると、

もっと出来なくなってしまうのも、
当然のことなんだよね。

*

ゆっくりでいい。
たった1つからでも良い。

歩み出せたら、それは大きな一歩。

具体的にどうだこうだと
書くことはあえてしないけど、

何か問題や課題が何年も解消しないとしたら、
そこには問題がある認識を受け止めることから、
始めなければならないことは明白だ。

でも、ずっと不平不満を言い続けて、
何も行動しない。
すぐに感情的になって逆ギレする…

そういうのは、私は何か、違うと思う。

問題解決の一歩は、
冷静に現状分析することではないだろうか?

多少耳の痛い話にも耳を傾け、
学ぶことでしか変われないのでは無いだろうか?

「そうやって貴女は私を責め立てる!」

と、言われるたびに、
間違っているのは自分かもしれないと、
色んな学びを追求してきた…。

でも、学べば学ぶほど、
ある価値観と選択と起きる事象には相関がある。

現象は単体で起こるというより、
連鎖反応が潜んでいることがほとんどだと思う。

だから、根本的な原因を分析しないことには、
何度でも問題を繰り返す。

そして、不平不満は止まらない…。

もう、そのサイクルから、抜け出そう。
私は疲れたよ。

私が間違ってる…と思うたびに、
見えなくなった答えがあった。

そのたびに、苦しくなった。

そこには、わかってもらいたいという、
気持ちを捨て切れなかった自分が、
原因だったのかもしれない。

従順過ぎることも、
良いこととは限らない。

何が正解で、何が不正解ということよりも、
もっとフラットな視点から、

学ぶことが沢山ある。

自分の認知バイアスに気付くことは難しく、
外界に対する自分の反応から、
意識的に振り返る事でしか学べない。

類似的な事例を知ること。
その主語が自分ではなくとも、
抱える悩みは似ていたりする。

同様に、豊かさの中にある条件要素も、
共通する何かを感じる傾向がある。

時に、「卵が先か?鶏が先か?」と
問わずにはいられないような事もあるけど、

ただ1つ確実なのは、
自分のまだ知らない世界ということ。

問題を抱える頭で導き出せる答えは、
問題解決に繋がらない可能性もある。

何度も繰り返す場合には、
その考え方そのものを見直す必要は、
やっぱりあると思う。

自分の選択傾向が、
問題解決から遠ざかってしまうのなら、

まだ未知の選択に踏み出す必要が、
あるような気がする。

それは、自分の苦しみを、
認めることでもある。

辛くて当然だよ!と、
受け止めること。

一度、色んなものをリセットする。

そんなの無理だと、
早々と消し去ってしまった選択肢が

見えるところまで戻ってみる。

「無理」と決めつけていた何かは、
本当は無理じゃない可能性が
あったのかもしれない。

「無理」だと思っていた何かに
挑戦することを決めたなら、

全く違う道が、
現れ始めるかもしれない。

もしそれがまた違うと感じたなら、
再び考えればいい。

言葉にしなくても、
自分がわかるなら、それで進め!




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