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私の制作モチベの変遷

こんばんは。ミサキです。

真夏のピークも去って(某楽曲感)、少しずつ過ごしやすい気温になってきましたね。って油断してたらブタクサの花粉が猛威を振るい始め、これはこれでちょっとしんどい今日この頃です。風媒花のみなさん、水媒か虫媒にシフトして繁殖してくれませんかね、まじで。じゃないと焼き払っちゃうぞ💛


今日は、なぜ私が美術作品を制作しているのか、その理由を振り返り書きとめようと思って、明後日のフォーラムで使用する資料を作成し終えていったん電源を落としたパソコンを再起動しました。


もともと、小学校までは単に手作業が好きだったり、美しい絵を描く画家やイラストレーターの方々に憧れていたりして、絵を描いていました。小学校高学年くらいからは、承認欲求もあって絵を描いていました。周りの子たちに「みさきちゃん、絵じょうずだね~☺」って褒められるのが嬉しくて描いてました。※先生に褒められたことはただの一度もございません。先生方はおそらく「授業の方針に従って描いてくれ!!」と思われていたのではないでしょーか。笑

中学はボーカロイド全盛期と言っても過言でない時期でして、オタク心を満たすために描いてました。あと同級生がちやほやしてくれるのが嬉しかったし、同じように絵を描くのが好きな子たちと交流するのも楽しかった。高校時代は、それに加えて神絵師になりたくて描いていたっけ?


絵を描くモチベーションががらりと変わったのは大学に入ってから。上京(?)して環境ががらりと変わり、関わる人も増え、人間関係がより広くより浅くなったことで、心理的に受け止めきれないことも多くなりました。次第に、それらの発露として絵を描いたり立体作品を作るようになりました。高校時代『艦隊これくしょん』なるものが流行っていたこともあり、それをもじって当時の作品を『かんこれ─感情コレクション─』と呼んでいたりします。わら。

また、この時期に作風っつーか絵柄も大きく変わります。もともと安定して「自分の絵柄はこれだ!」みたいなのはなかったのですが、小学校から高3の12月くらいまでの絵柄にはいわゆるサブカルっぽさ、アニメ絵や漫画絵のような特徴が共通してありました。が、センター試験が終わって美術受験のための予備校に通うようになってデッサンを1日中やってたら、絵柄がどっちかっつーと写実寄りになりました。というか、余り器用な方ではないのでデッサンしまくった結果デフォルメが苦手になってしまいました。


絵柄からデフォルメのきいたキャッチ―さみたいなものがなくなったこともあって、より自身の内面について考え表す作品にシフトしていったともいえると思います。


話がそれましたが、人間関係がより広くより浅いものになったことで、まあまあ病んだ感じの大学生になりました。結果、「美術は私を必要としていないかもしれないけれど、私には美術が必要だ」というだいぶ思いつめた思考に至りました。あの頃の私の作品制作のモチベーションって、もうモチベーションっていうより制作に依存するまであったように、振り返ってみると思いますね。人に直接言えないことをぶつけてました。病んでんなぁ。もうちょっと他者を信じて、話し合う姿勢というものを持ちなさいよ、過去の自分。


では最近はどうか?

確かに、自分の身の回りで起こったことを消化するために制作しているという点では、学部生時代と変わらないかもしれません。でも、そういう「ぶつけている」暴力的なストレス発散方法としての制作ではなく、受け止め熟考し、次に臨むための制作になっているように自分ではとらえています。


また、完成した作品に対する捉え方も変わった気がします。高校時代までは完成した作品を目指して絵を描いていました。今ももちろん完成を目指して制作していることに変わりはないのですが、完成した作品が欲しくて制作しているというよりは、制作過程が楽しいから、自分にとって有意義であると思えるから制作しています。

小学校の頃も、制作過程が楽しいから描いていましたが、今はそれに加えていろいろと思考を巡らし、考察する時間になっているという点で当時とはまた異なっています。いや、小学校の頃も何も考えずに描いていたわけではないけれど、興味があったのは形となって表れる絵そのもの、どうすれば「うまいね」とほめてもらえる絵になるのかだったので。最近の制作で作業中に考えているのとはまた違う方向の思考でしたって感じ?


まぁそんなわけなので、私は割と自作品を手放すことにためらいがないタイプだと思います。制作のきっかけになった物事について消化できれば、気軽というとちょっと違うかもだけど、その作品は人の手に渡らせてしまっていいかなぁって感じです。その作品が、同じようなことで悩んでいる方、あるいはまったく異なることで悩んでいる方のもとに届いて、その方のお守り的な存在になったら喜ばしい限りです(矛盾するようだけれど、「君に元気を分けてあげよう!」みたいな某ヒーローみたいなノリで作られている作品は苦手だし、自分もそういうのは作りたくないなと思ってる)。

逆に、完成した段階でまだ自分の中で落ち着いていなければ、その作品は手元に残して自室に飾ってます。…お? いや、場合によっては完成作品が欲しくて制作しているパターンじゃないか、これ。まあいいか。

初めから誰かのために制作しているというより、自分自身のためだけに制作し、制作過程を楽しみ、完成後にその作品が自分のためのものや誰かのためのもの、納得いかなければゴミに変容してます。まあだから作品がお金にならなくてもいいんだよねー。いや、収入になった方が嬉しいっちゃ嬉しいが、収入自体が目的になることはあまりないかも。経済的な理由それ自体は制作のモチベにはならない。自分の手元にお金がないことについて、「この社会構造、理不尽ではありませんか!!」という怒りが湧けば、経済的な理由をきっかけに制作することはあるかもだけど。お金がないという理由だけでは作品は作れないかもなー。


これは蛇足ですが、昨日web版の『美術手帖』で縄文土器と弥生土器の違いから「共有地の悲劇」について考察した内容を含む記事を読んだんですよね。ネタバレになるのでその内容は書きません。代わりにURL貼っときます。

これを読んだとき、収入になろうがなるまいが制作に没頭してしまう理由は、もしかしたらここにあるのかもなと感じました。一見利益にならないような活動をついつい行ってしまう性質を持っている人がいることが、そのコミュニティーの持続には実は欠かせない要素なのではないかと。美への根源的な欲望とか人間の本能とか断言してしまうのは違うかもしれませんが、賃金労働からかけ離れた活動を行わずには生きていけないことって、決して邪魔な存在ではないのだ、とこの記事を読んで改めて思いました。

自己満足で制作している私ですが、この記事読んで大義名分を得たつもりで今後も無駄に制作していこうと思います。




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