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祈りの先に



祈る=宗教=怖いもの
そんなイメージしかなかった。

旅中、出会う人々に、
「何を信仰してるの?」
と聞かれても
「え、、なにも、、一応仏教?でも熱心じゃないよ」
そんなドモッた受け応えしかできなかった。



旅の初期に訪れた東南アジア。
特に、ミャンマーでは、熱心に祈る人を多く見かけた。
パゴダと呼ばれるお寺は、土足禁止で、
どんな古ぼけた、土だらけのパゴダでも、
必ず、入場口で裸足になる必要があった。

中に入ると、金ピカの仏塔の前に正座し、額を床につけ、
何度も祈っている人が沢山いた。

日本でも仏教を信仰している人が多いけど
祈り方のスタイルの違いに、かなり衝撃を受けた。


インドでは、至る所に神がいた。
奇抜な色のプリント画がそこら中に貼られており、
聖地バラナシではガンジス川に向かって
熱心に祈る人や沐浴をする人、涙する人を多く見かけた。
また、ヒンドゥー教以外にも様々な宗教があり、
施しで有名なスィク教の寺院では
誰もが平等に、無料の水を飲むことができた。


東欧を訪れた際は、
教会が観光地の一つでもあり、各地の有名な教会に足を運んだ。
日曜日は特に賑わっていて、
聖歌を歌う合唱隊の、透き通るような歌声に心震わされた。
教会の中は独特の雰囲気で、
“心洗われる”
という言葉が身に染みた。

モロッコでは、毎日、決まった時間に、
街中のスピーカーから、祈りの言葉が大音量で流れてきた。
1日に幾度か繰り返されるそれは、イスラム教の祈りの回数の多さを、感じさせてくれた。
また、スーパーではお酒売り場が隔離されており、
購入後は中のものが見えないグレーの袋に入れられた。
もちろん、街中でお酒を飲むのはタブー。
値段も物価に比べてかなり高かった。

キューバで友達になった友人の家には、
アフリカ系の、土着信仰の祭壇があった。
緑や黄の奇抜な色合いの祭壇で
ベルを鳴らして祈りを送った。



訪れた各地で、それぞれの信仰を感じた。
理念も、考え方も、神の在り方も
それぞれ全く異なっていた。
聞けば聞くほど、それぞれのスタイルがあった。

そんな中で、共通していたのは、
祈る人々の熱心さ。

当時の私は、
なぜ、そんなにも特定のものに熱心に祈ることができるのか。
それが理解できなかった。

ただ、感じたのは
その一心不乱に祈る姿が、
とても、とても、”美しい”
ということ。

自分には到底できないことで、
それが羨ましくもあり、本当に美しかった。

ある旅人が言った。
「信仰心が厚い人は、貧困層が多いんだよ。
みんな貧しくなると、どこかに心の拠り所を求めるから。」
と。


たしかに、貧困な国ほど、熱心に信仰する人が多かったし、それは的を得た言葉だった。

それでも
何かを信仰できるという心は素晴らしいのではないか。

自分の力ではどうにもならない
何か、大きな、大きな、目に見えない存在を感じることは
倫理正しく生きていく上で
必要不可欠なことなのでは。
と今は思う。

どうしても、日本に生きていれば
祈るという行為は嫌煙されるが
神ではなくとも、
自然や命に感謝し、日々祈ることは
自分自身を肯定し、生きていく活力になる
と願って
私は今日も、自分流の祈りをおくる。

自己満かもしれないが、
「祈る」
という行為を通して
あの日々に出会った人たちと、
少しでも繋がれているような
そんな感覚を覚える。

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