見出し画像

戦闘モードで外に出ていた自分へ思うこと

子育てをしていると
自分の考え方と向き合うことが多いなあと
感じます。

他のことだったら、他人のせいにしたり
出来事のせいにしたりして
離れることもできるけど
相手が可愛い可愛い我が子だと
投げ出すわけにはいかないし。


子どもが子どもらしい振る舞いをするのは
当たり前のことだと思っていて

例えば
・食べ物を散らかす
・好きなものだけ食べる
・大きな声で元気よく話す
・楽しい時に笑う
・興味があるものに駆け寄る
・気に入らないこと泣いて抗議する、反発する

これらを人との関わりの中で表現した時に
状況によって
社会のルールを知ってもらう、守ってもらう、
それを教える、というのが教育とかしつけ
の役割だと思っているんです。

あなたのその快・不快の表現は認めた上で、
みんながいるときはこうしていこうね、みたいな。

我が家では最近でいうと
レストランでの食事とか、買い物している時がこれにあたります。
家族だけで家の中にいるときはもっと寛容なので。



子育てが始まってすぐの頃は
この考えがなかったから

レストランで子が泣き声を上げた瞬間に
「すみません!!!」と席を立ちたくなってました。
(実際にはえーーん😭の中の「え」ぐらいで)
お米1粒が床に落ちるのを絶対拾って綺麗にしたかったし
バスに乗るときは子が声をあげないように(それが泣き声でなくても)
気を張り詰めていたし。

でもあるとき
誰のためなのだろうか、とふと思っちゃって。

実際公共の場で、
「赤ちゃんかわいいね」と声をかけられることはあれど
うるさいので静かにしてください、と
人から注意されたことはありません。
飲食店でも。

泣いてしまった時に向けられる視線は、
「大丈夫?」というものだったり
「うちのお店は赤ちゃんはいくら泣いてもいいんだから」と
言ってもらったことすらあります。

バスの中で荷物持ってもらったり、
折りたたんだベビーカーをどうしても支えられなくて
見ず知らずのお姉さんにたまを抱っこしてもらったこともある笑

外で知らない赤ちゃんが泣いているのに出会っても
「泣いているな」と思うだけで
そこにはなんの感情も湧きません。

そこで気づいたのは、外ではちゃんとしなければ!
という必死のバリアは、子のためではなく
「自分が周りから”良い母親”だと思われたい」
という自意識だということ。
良い親、頑張っている親、
親なんだからちゃんと子を制御しなくてはいけない
みたいな感じ。

泣いちゃダメだよ、泣かないで、と思っているのではなくて、
泣いている子をちゃんとあやしている親でいたい。

そんなだったから、
子連れで来てすみません、、という意識・ポーズで
外食をすることが多かった。

なんてしんどいんだろうと思った。
そこに気が付いてからは
少し力を抜いて過ごしています。

道をゆっくり歩く権利がこの子たちにはあるし
少しくらい失敗したって周りの人たちとの関わりの中で
本人たちに気づいてもらえばいい。

私は子をコントロールしないし
見守っていれば勝手に育ってくれるだろう。

もちろん通勤ラッシュの電車には子連れで乗らないし
子どもお断りのレストランには行きません。
場所は考えるけど、
子どもたちが自分で経験して学ぶ場を
一緒に経験したいなと思います。

茅ヶ崎の地は人がおおらかだと感じていて、
いろんな人が声をかけたり
子を見守ってくれている気がする。

なにより道をゆっくりお散歩したり
ぼーっと海を見ている人が多いから
そうだよね、歩くために歩く時ってあるよね、
を思い出しました。

それまでは目的地への移動のために最短ルートで
歩いていたからな。
自分がゆったり世界と関わるから
相手からもゆったりが返ってくる気がします。

2年前に息を止めながら戦闘モードで
外に出ていた自分へ。
もうすこし息して大丈夫だよ、と伝えたいです。

#2歳差育児
#ヨガ
#yoga
#子育て
#子育てで思うこと
#湘南移住
#美樹のyogalife
#journaling
#育児記録

この記事が参加している募集

子どもの成長記録

多様性を考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?