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心に生きる人

photo by 薄氷

母親がガンを患ってすぐに、予防医学のいい先生がいると聞き
私を連れて母はその医師を受診した。
わりと近くの病院にその先生はいて、私は半信半疑で付いていった。

その先生が言うには
『鳥肌が立つような胸が震える体験をすること。感動して鳥肌が立つとき、細胞ひとつひとつが動いている、これは体にとって、とても良いこと。』というようなことを言っていた気がする。忘れた。

先生は最後に、『だれか尊敬している人はいますか?』と母に尋ねた。
母はしばらく考えた後、『父です。』と答えた。
先生は『では、仮にその人が亡くなっていても、その人に触れる、近づくことです。その人のことを考えることです。それが感動への近道です。』と。

帰り道、母は、なんだかお坊さんのような先生だったね・・・と言っていた。私は、こっそり、母が祖父を想っていることに感動していた。

母はとても苦労して育ったらしく、よくその話を聞かされていた。
祖父は器用貧乏で何でも出来たので、自分でありとあらゆる思いついた商売で家族を養っていたらしいが、生活は苦しく、母は子供の頃からお金のことで辛い思いをしたらしい。
でも、尊敬している、という気持ちをはっきりと示したことは無かったので、私は驚いたのだ。

貧乏で、さんざん苦労して、進学も諦めて育ったにも関わらず、父を尊敬しているとは。
すごいな、おじいちゃん。と。


そう、祖父は本当にすごい人だった。
満州で、終戦のその年に捕虜として捕まり、シベリアに抑留され、仲間は皆死んだが、3年間をたった一人生き抜いて、ふるさとの五島列島に戻った。

生きるためには、蛇でも猫でも食べた、と幼い私に話してくれた。
母は耳をふさいで聞きたくないと言ったが、私は猫を食べてまで生き抜いた祖父の強さを、子供ながら、心からすごいと思った。

どうやって猫を食べたのか、シベリアの寒さがどれほどか、ロシア兵にうまく取り入って生き抜いた方法、聞けば聞くほど震えるような恐ろしさ。
仲間が毎日ばたばた死んでいく中、祖父だけが生きて戻ったということが誇らしかった。

何年も帰って来なかったので、祖母は諦めて他の親族と結婚させられたらしいが、祖父が戻ったことで家族は元に戻り、その後、母たち4人兄弟が産まれた。
しかし、満州で祖父の母、子二人(母の兄と姉)を失い、骨は遺したままで、祖父は常々そのことを悔やんでいた。
戦争で家族を失うという地獄の苦しみもまた、祖父から教えてもらった。

私たちが夏になると帰省するようになったころ、祖父は五島で、小さな中華料理店を営んでいた。
祖父を訪ねると、昼間は美味しい餃子とちゃんぽんを作ってくれて、夜はいつも歴史か、俳句、短歌なんかを勉強していた。
部屋は資料で溢れ、いつも筆で何かをしたためていた。

祖父は地元では歴史家として一目置かれる存在になっていた。
生まれ育った五島列島の歴史、妖怪の伝説、ありとあらゆることを史料としてまとめていた。
いつ見ても勉強していたが、漁師としても生活していたので、筋肉隆々、それでいて精悍で美しい顔立ち、なぜか少し目が青く、ぶっきらぼうで、でも優しくてとても魅力的な人だった。ホテルマンだったので容姿端麗であったことは本人の口から聞いた!

昔のことを思い出していると、なにか遺跡復興に携わって、新聞やらTVにやらよく出てたな・・・と思いだし、兄に聞いてみたら、新聞記事の写真が送られてきた。

これを読んで、『いやガチやん』と突っ込んでしまうほど、祖父はすごい人だった。

五島で、知っている限りの遺跡を調査し、歴史を調べ、長い年月をかけて町長らを説得し、放置されている数々の古墓塔群を蘇らせたと書いてある。
でもなにより、胸に刺さったのは、満州で死なせた子供の年齢。
奇しくも、今の私の子供とほぼ同じ年の、5歳と3歳。
胸が痛い。

祖父が生きて帰ってきたからこそ、母が産まれ、私が産まれ、私は子供と出会えた。
そう考えると、授かった自分の命の大切さを嚙みしめる。

母の心に祖父が生き続けていたように
私の心には、その母と祖父が生き続けている。

二人はもうこの世にはいないけれど、
私の体の中には、ふたりの血が流れ
私の心の中には、ふたりがいつも生きている。

私は母と、祖父を尊敬している。
二人を想う時、強く生きたその心に触れ、鳥肌が立つ。


あの透き通ったエメラルドグリーンの海をもう一度見たいな。
子供たちと一緒に。

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