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父と娘の珍介護道中(日記的エッセイ2010〜2022) 時々、母のこと、故郷のこと、自分のこと EP24

エピソード24
サコちゃん(父の一番下の妹)の突然の旅立ち

2018-05-14

小6まで大磯の実家で一緒に暮らした独居の叔母が、5月9日、80歳の生涯を閉じ、昨日葬儀を終えました。

毎日鏡台の前でオシャレして会社に出かける昭和のOL姿は、小学生の私にはとても眩しく見えた。
社員バス旅行がある折には、よく弟と私を連れて行ってもくれた。
30代で結婚したけど、旦那さんが40代で亡くなったので、その後はずっと独居。

平塚に住み、父母と同じ詩吟の会に入っていたから、大人になってからも会う機会が多かった。
私の母が亡くなり、父がケアハウスに入ってからは、自主的に週に一度実家の空気の入れ替えに来てくれて、その足で父を訪ねて一緒に詩吟を歌ってくれてもいた。

陽気で、おしゃべりで、クソ真面目。
全然悪気なくカチンとくる一言を言ったりするから、私もストレートに応戦すると急にシュンとしちゃう、なんて場面も多かったけど(笑)、
私にとっては近くにいるのがあまりに当たり前な、叔母というでもなく姉というでもなく、「サコちゃん」でしかない存在でした。

一昨年夏、最初に異変に気づいたのは、実は会う機会が多かった父。
「サコが約束の時間に来ないんだよ」と言うようになった。
「そりゃサコちゃんだってお父さんの都合に合わせられないこともあるでしょ」と私は呑気に思ってた。
でも、昨年のお正月、実家での新年会に珍しくサコちゃんが遅れてきて、
電話したら「今、バスに乗ってるの」とへーきな様子。
いつもちゃきちゃきのサコちゃんからは考えられない反応にものすごいショックと違和感を覚え、「あ、これは認知症が始まったな」と思い、
慌てて叔父(父の一番下の弟)に知らせたりもした。
サコちゃん本人も少し自覚があったようで、病院の「物忘れ科」に通いだしてるようだった。

そこから数ヶ月後の昨年秋頃。
何度も何度も同じことを言う電話が尋常じゃなくなり、その声がある日機械のようになった。
独居だから何かあったら大変、と、叔父に指揮官になってもらい、地域の民生委員との連携や介護保険の手続きや施設の見学なども早急に進めていた。
その間もあれよあれよというまにサコちゃんの時間の感覚がなくなっていき、
まったく約束ができない状態に。迷子になることも多々。

でも、その段階でも、「あまりにオカシイと自分でも思うから、原因がわかるといいなと思ってる」と言うくらいの自覚はあって、
今年1月15日に決まっていた検査入院を心待ちにしている様子だった。
1月2日には例年通りサコちゃんも一緒に実家で新年会。
その迎えに行くと、「あら、今日はお正月なの? 知らなかった」と笑っちゃうような返し。サコちゃんはよく食べてたし、素っ頓狂なやりとりは続いたけど、みんなでとても楽しい時間をすごせた。
そして、これが期せずして最後の晩餐になった。

自宅のお風呂で倒れたのはその翌日。
胸騒ぎがした叔父が訪ねて発見し、「物忘れ科」で通っていた病院に救急車で運ばれたのだ。
当直がたまたま脳神経の先生で、すぐに脳のMRIを撮ってくれた。
私も駆けつけると、なんと頭の左側に7センチの脳腫瘍があり、放射線治療をしてもあと数ヶ月だろうと告げられてしまった。
認知症だと思っていた症状は、すべてその仕業だったと知り、
叔父も私も愕然とした。

サコちゃんの性格を知り尽くしてる叔父は、本人にも脳腫瘍があることを伝え、
本人の意思ですぐに1ヶ月の放射線治療に臨むことになった。
そのときは元気で、現状維持のリハビリを受けるときは、「私、やる気だけはあるの」と笑顔でガッツポーズを見せるくらいだった。

それからしばらくは、「サコちゃん、わかる? みほちゃん」と話しかけると、「こんなにいい顔を忘れるわけがありません」と、機械のような喋り方だったけど、冗談めかして言ってくれたりもした。
でも、会話ができたのは1、2週間ほど。その後はずっと眠ったようになり、
1ヶ月の放射線治療を終えて退院せざるをえなくなった。

退院の日、担当の看護師さんたちがみなさん揃って、
「石塚さんは癒し系だったから寂しいです」と泣いておられた。
おしゃべりでチャキチャキだったあのサコちゃんが、
人生の最終段階で「癒し系」という存在になっていたことに驚き、感動して、
私ももらい泣きをした。

最期の日々は、心温かい手厚い看護をしてくれる施設で。
枕の位置を直してあげて「どう?」と聞いたとき、「まことによろしい」と答えてくれたのが、私自身が聞いた最後の声だった。
その後も耳は聞こえてるはずと思い、あるとき「昔、こんな天気のいい日に、ヒロちゃん(弟)と私をサイクリングに連れてってくれたね」と耳元で話した。
すると急に嬉しいような悲しいようななんとも言えない表情に。
サコちゃんは絶対わかってるんだと思った。

危篤の知らせが来たときは、叔父夫婦、弟家族、父と、みんなで久しぶりに顔を合わせて、サコちゃんを囲んで昔話に花を咲かせた。
それもきっと楽しく聞いててくれてたはず。

入院で空き家状態になっていたサコちゃんのアパートの掃除や整理作業を、
「できる人ができる時にできることを」という叔父の指揮のもと、
いとこたちと協力してやれたことも本当によかった。
それぞれがサコちゃんを感じて、
心の中で感謝とお別れを伝えるいい時間になったと思う。

そして、本人の希望通り、管も何もいっさいつけることなく、本当に眠るように穏やかに息を引き取った。
病院や施設や葬儀もすべて自分の蓄えで賄ったサコちゃん、本当に立派できれいな最期でした。
倒れてから4ヶ月ほど、たくさんの幸せをくれたサコちゃん、長い間ありがとうございました。
長くなりましたが、ここに記録として記させていただきました。

というわけで、昨日は母の日参りには行けなかったけど、
サコちゃんのアルバムから母との懐かしい写真を見つけたので、お嫁入り前のサコちゃんと一緒にアップ。
これでスッキリと次に進めそうです。

サコちゃんの結婚式@滄浪閣(伊藤博文の別邸)、同じ日母と、平塚の七夕、私がサコちゃんのアルバムから選んだ遺影


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