AIが人の創造性をも脅かす中、人が生き残っていくための必須の鍵
文明の進化というのは、希少だったものが手軽にたくさんの人が利用できるようになるってことが一つの特徴的な結果。
たとえば演劇は、昔は上演されているところに行く以外楽しむことはできなかった。でも映画ができたりテレビができたりしたことで、楽しめる人の数が増え、楽しむ方法も簡単になった。家にいながらスイッチを入れるだけで見ることができるようになった。
インターネットが登場して、紙の本が売れなくなった。それまでは文字情報は紙媒体しかなかったけれど、かさばらない、重くない、手に入れるためにどこかに出向く必要がない、有料級の情報が無料でごろごろあふれているようになった。
こんどはAIが世界中のクリエイティブなものを廉価でありふれたものに変えようとしている。
この流れは演劇や本を見ればわかるように、止めることはできない。人間の歴史の中で生まれてしまった便利なものが消えたためしがありません。
でも、舞台で演じる演劇を今もわざわざ足を運んでみる人がいたり、紙の本を愛する人がいたりするように、AIではなく本当に人が作ったものの価値が減ることもないと思うのです。
ただし、淘汰はされていく。AIの方がうまくできていると思われるような創作は消えるでしょう。そしてそれは、AIがあってもなくても、今までもそうだったのです。有象無象の創作は後世には残らないけれど、どうしても際立ってしまう光を宿したものは残ってきました。
だから、テレビにはない醍醐味を味わいに舞台を観に行くように。役者の息遣いや空気を震わせる音響や客席の熱やなんやらは、映像では届かない。今のところは。(そのうち、メタバース空間でそういうものすら再現するものがいずれは出てくるだろうけれど。そうなったら私たちはもう、現実にいるのかメタバースにいるのか、わからなくなってしまうかもしれない。)
映像からは得られない魅力を放つ舞台演劇でないものは、反対に淘汰されて生き残れるものとそうでないものの差が大きくなっていくのは確かでしょう。
文章もアートもプログラムコードも、AIはどんどん人に近づいています。便利さや手軽さを追求した製品なら、AIが作るもので十分。質を追求した場合も、かなりのレベルでもはや人が作ったものと見分けがつかなくなっています。それでもなお人が作ったものを求めるとしたら、その理由はなんなのでしょう。
もはや、自分の直感が共鳴するかどうかだけかもしれない。その作品を見たり聞いたり触れたりして、心が動くかどうか。
そして私たちの心はちゃんと、人が魂をこめたものに対して反応できると信じたい。
究極をいえば、AIも人が作り出したものだから、AIの創作物だって人の創作物。でもやはり、その創作には思いがない。人が人生という時間の中で磨いてきた感性や、ストーリーや、思いの織り成すものではない。なぜその色をキャンバスのその場所に置いたのか、なぜそのシーンを入れたのか、AI作品には心に基づく理由がない。
でも私たちはその理由となるストーリーに感動する。ピカソのゲルニカや岡本太郎の太陽の神話は、それを目にした瞬間から魂ごと捉えられます。岡本太郎がどんな顔をしてどんな熱量で一筆一筆を置いていったのかが伝わってくる。
そういうものは残っていくでしょう。でも、どうしたらそういうものを生み出せるのか。そのマニュアルはない。魂やエネルギーや思いや生命を、どう込めるのか。
おそらくノウハウを考えているかぎり実現しません。守りに入っているものはAIに負ける。売れるためとか、承認を得るためとか、なにか損得勘定や非難から自分を守るとか、そういう意図が理由のストーリーにあるものは。人生という砥石で血を流しながら研いできたナイフで身を削るようにむき出しな作品。それが人間の作品。それしか人間の作品とは言えなくなります。
きれいに小さくまとまってたら、AIに存在をかきけされる。すでに、上手くやろうとしたらAIよりうまくはできないんだから。
自分そのもので勝負していく。それをするかしないか。それがAIがつきつける二極化で生き残るための答えなんだろうなと思うのです。
今までは幸せに生きるために、自分そのもので生きる大切さが説かれてきました。でももう、死活問題になっているのです。
自分そのもので勝負していくこと。それがAI時代の波に生き残っていく必須の鍵なのです。
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