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孤独と絶望と不安と悲しさがせりあがって喉が詰まりそうになる

突然に脈絡なく孤独と絶望と不安と悲しさがせりあがって喉が詰まりそうになることがあります。

強度はまちまちで、というか感じられる感度が鋭かったり鈍かったりですが、私の核をずっと強烈に支配している感覚でした。

どうしようもない孤独感や、誰にも理解されないという絶望や、いてもいなくても社会にとってどうでもいい存在であるというセルフイメージは、どうしてもぬぐい切れず、それがあるから私は学んだり、自立しようとしたり、癒したり、自分を知ろうとしたりしてきたのでしょう。

昨夜、その感覚が強まって、それを最初に感じた時の自分にふいにもどりました。たぶん3~4歳。親にはそのつもりはなかったのかもしれませんが、私は父親に無視されて傷つき、さらにその状態でいることを母親にも無視された、そんな場面です。

たあいもない誰でも1つ2つはありそうな場面。でもその小さいわたしはそのとき、孤独と絶望と不安と悲しさがせりあがって喉が詰まりそうになりながら、そのつまりとなった嗚咽を涙に変えることができず、じっと私がいないかのようにふるまう家族を見て立ち尽くしていました。

社会のすべてから拒絶されているという思い。

ここが始まりだったのか。

その子である自分とみている今の自分、どちらがどちらかわからなくなりながら、その子と同化した自分は天井を見上げ、口がどんどん開いていきます。勝手にどんどん。叫ぼうとするように。でも声が出ない。

わあーーーん、と小さい子が泣くときのように喉からエネルギーが絞り出されていくのに、それは喉と口の筋肉を緊張させるだけで声にならないのです。

今の私はその子の手を取りながら、どうしてほしい?と聞き続けています。

あなたは素晴らしい存在だよと言い続けています。

その子はまだ納得はしていません。だから自分を不幸にすることで両親に復讐したり、存在を認めさせようとしたりしてきたのです。でももうそれはしなくていい。両親は象徴でしかないから。

両親に期待することではないから。そこで父と母につながっているコードを切り、その後は二人ともつかれて寝てしまいました。

朝起きて、孤独と絶望と不安と悲しさがせりあがったのを感じた胸のあたりに手を当て、その子がいるのを感じました。だから「私だけはもう絶対に、あなたを無視することはしない。必ず私が声を聞く」そう語りかけました。

まだ完全に癒されたというには程遠い感覚だけれど、やっと私の解放をはばんできた一番固く冷たく悲しい部分を見つけたように思います。

私の子育てはこのときの自分の癒しだったんだなと気づきました。我が子への慈しみは、母親としてでもあったけれど、我が子に自分も見ていた。自分がしてほしかったことをしていたんだ。

この子にこれから何度も会いにいきます。この子がにっこりと笑い満たされるときまで。


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