思考が生みだす不安から自由になる

ビジネスの活動で、投げかけたことへの反応がないと不安になる。お金の不安に繋がってるから。たとえばSNSでイベントへの告知をして反応ゼロとか。

日常のちょっとした投稿にはたくさんのいいねがつくのに、告知になったとたん、ひとつもつかない。これはその投稿の文言が悪いとか、自分が嫌われているとか、価値なしとスルーされているというわけでなく、そのSNSのアルゴリズムではじかれて、本当にその記事を見ている人の人数が極端に少ないからということが多い。

でも、そういうアルゴリズムにのっとった記事の上げ方ができなかったこと、そのメディア以外の手法をとらなかったこと、たとえアルゴリズムではじかれても一定数の反応がもらえるほどの人脈をつくってこなかったことなど、自分へのダメだしが発動する。

やっぱり自分はうまくいかないんだ。。。。このままだと数ヶ月後には一文無しになってしまうかも。。。これで集客して得た収入で手に入ると思っていたものもゼロだ。。。もう消えたい。ゲームからおりたい。。。なんで私だけこんなに運がないんだ。。。なんでこんなに苦労続きなんだ。。。神様のバカヤロウ。。。行動とかポジティブとか提唱しているやつの嘘つき。。。内面変わっても現実変わらないじゃないか。。。

自分責めと他人責め、果ては神様責めループ。

ループをひととおりして、トイレとかお風呂とかで思考がとぎれ、生理的快感が得られると、ちょっと冷静になる。

でもこれって私にはどうしようもできないことだった。内面整えて、思いを込めて記事を書いて、勇気だして告知して。

その上で次の瞬間雨が降るかどうか晴れるかどうかは私たちにはコントロールできない。

だから、これを体験することだけを私はすればいいんだ。たんたんと。そして、内面整えて、思いを込めて記事を書いて、勇気だして告知しても、できないときはできない。今回はこの人生のタイミングでそれをやることになっていたからやった。やらないときはやらない。やるときはもっとやる。そしてやるかやらないかと、成功するかしないかは関係がない。運の雨が降るか降らないかも関係がない。

降参するしかないのだ。自分を責めてもしかたがないのだ。うまくいくときはいくし、いかないときはいかない。

だから、どうせコントロールできないのなら、くよくよしても仕方ない。まあ、くよくよしちゃうかどうかも、すでに決まっていることではあるのだけれど。

人生が終わるとき、地獄の閻魔さまに努力がたりなかったと責められることはない。だって、努力しようとしまいと、努力するかどうかは決まっていたことで私たちにどうしようもないことだから。努力したくてもできないときだってある。努力と思わず努力できるときもある。したくない努力をすることもある。どれが尊くてどれが違うかなんて優劣をつけられるだろうか。

努力も自分責めも、出来事への反応の理由づけだ。努力が足りなかったと考えてもっと努力して、この人生ドラマに没頭するもよし。

ドラマだったと気づいて、感情を感じきったら手放すもよし。

私たちは鳥と同じ。本能が導いた場所でえさをさがし、休み、さえずり、子どもを増やす。失敗してくよくよすることはない。それは鳥が無能だからではないから。鳥は導かれるがままに生きているだけ。

大いにさえずり、大いにはばたくことを味わえばいいだけ。


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