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激しさの奥にひそむ静謐~智美術館「継ぐ」展の樂茶碗

薄暗い部屋の中に、スポットライトに照らされた茶碗がひとつ、黒々と浮かび上がっている。

でこぼこした形。ごつごつした表面。ひとつの茶碗の中に、黒や灰色、緑や赤、さまざまな色彩があって、目が離せなくなる。

茶碗にときめく日が来るなんて、数年前は夢にも思わなかった。

虎ノ門の菊池寛実記念 智美術館で開催されているコレクション展「継ぐ」を観る。

代々受け継がれてきた「やきもの」たちの展覧会。

樂茶碗や、花瓶、お皿などさまざまな陶器があって、表現の多様さに引き込まれる。

十四代今泉今右衛門の「墨はじき」という技術を使った雪の結晶の模様が、いつまでもずっと見ていたいほど繊細で美しかった。

展覧会の中で、特に展示数が多いのは、樂直入(十五代樂吉左衛門)の樂茶碗。

私が「樂茶碗」というものを初めて見たのは、通っている茶道教室だった。

ろくろを使わずに手でこねたり、へらで削ぎ落としたりして作るので、ごつごつと素朴で、あたたかみのある形をしている。

450年前、樂家の初代で瓦職人だった長次郎が、千利休が理想とする「侘び」の世界観を茶碗で表現したのが、その始まりだそう。

以来、現在の十六代まで、一子相伝で受け継がれてきたという長い時間のスケールに思いを馳せると、何だかめまいがする。

今回の展覧会に並んでいたのは「焼貫」の茶碗。激しい火にさらして焼くので、表面が荒々しくなる。色彩も、はっとするような赤や金銀が混ざっていて、初代の茶碗の、静かなイメージとはだいぶかけ離れているようにも思える。

歴代の当主たちは、先代の教えを忠実に守り、伝統を一生けんめい守ってきたのだろうと漠然と思っていたのだけど、その思い込みは全然浅かった。

十六代それぞれの当主が、樂茶碗というベースの上で試行錯誤と創造を繰り返して、常に新しく生まれ変わってきたからこそ、樂家の歴史は450年も途切れることなく、連綿と続いてきたのだろう。

樂直入氏は、3年前のインタビューでこんなふうに語っている。

私の激しい焼貫茶碗は、「樂家の伝統から飛び跳ねていて、どこが長次郎からの伝統につながっているのか」と多くの方に聞かれます。信じて頂けないかもしれませんが、私の中では、しっかりと長次郎とつながっているのです。

長次郎の茶碗は、とても静かな茶碗です。しかし、本質的には深く、激しいものです。

(nippon.com「千利休が愛した茶碗づくりを継承する樂家15代当主 樂吉左衞門」より)

照明を最低限に抑えた薄暗い展示室で、スポットライトに照らされた焼貫茶碗に向き合うと、最初はその表面の激しさにどきっとする。

荒々しい、生命力のようなものに惹きつけられて身動きできなくなり、上から下からじっと眺めているうちに、心の奥のほうが、しんと静かになっていることに気づく。

茶室で松風(釜のお湯が沸く音)を聴いているときや、瞑想をしているときと同じような感じ。

荒々しい外見の奥に、風のない湖面のような静けさがひそんでいたり。

穏やかで近づきやすい表情の裏側に、煮えたぎるマグマのような激しさがあったり。

物事の本質は、いつも見た目通りとはかぎらない。

   *

美術館を出たら、地面が濡れて、激しい雨が通り過ぎたようだった。

世界の淵に立って異世界を覗き込むような、凄い展覧会体験だった。

美術館はこじんまりとしているけれど、作品ひとつひとつを際立たせる展示方法が工夫されていて、私が見学した日曜の午後は呼吸をするのも気をつかうほど静かな中、とてもゆっくり観ることができた。

展覧会「継ぐ」の会期は11月29日(日)まで。




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