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寂しさをまとう「妄想」

「おばあちゃんがね、来てくれたの!」

数年前に実家へ帰って、母から一番に聞いたことばがそれだった。祖母が亡くなってから3,4か月経った頃だったと思う。

実家に帰る数日前、会社帰りに中華屋を営むおじいちゃんと道端で話し込み、おじいちゃんのお店で夜ご飯をごちそうになった。絶え間なく話すおじいちゃんの声に耳を傾けながら、2人分はあるんじゃないかと疑うようなチャーハンをもぐもぐとほおばった。

お店兼自宅でおじいちゃんは、92歳のお姉さんと同居していた。ひょこっと顔を出したお姉さんは髪が真っ白で、少し耳が遠いのか私があいさつしても返事はせず、ニコニコこちらを見ているだけ。けれどなんだか見入ってしまったのは、美しいほど背筋をぴんと伸ばして立っていたからだ。

ふだんやりとりなんてあまりしない私が、この話をすぐに母へ報告したくなり、長めのLINEを送った。するとその数日後に、祖母が母のところにやってきたと言うのだ。

「『私はもう大丈夫だから、痛くないから。楽しくってしょうがないよ』ってすごくニコニコしてたの。だから、みほをよろしくねって言っておいたよ」

祖母もこんな顔をしていたのかな、というくらい、母もニコニコしながら私に話す。寝ている時の夢なんかではなく、キッチンで食器を洗っているときに現れたのだそう。

「みほが出会った92歳の女性は、おばあちゃんがみほに会いたくてその人になっていたんだよ。おじいちゃんもその中華屋の人になって、みほにご飯を食べさせにきたんだね」

"人が死んで物理的に消滅したとしても、その人をめぐる人間関係とその枠組みが一挙に消滅するわけではありません。関係と枠組みは、記憶とともに残存し、生きている者に具体的な影響を与え続けます。

ということはつまり、残された者は、物理的に消滅した存在を、残っている関係の中に一定期間位置付け直さなければなりません。つまり、「死者」という存在として、再構成しなければならないのです。関係性をもう一度安定させる必要があるわけです。"
(南直哉 著『刺さる言葉』)

母は、祖母がお墓に入ってからは悲しい顔をして涙を流す姿を見せなくなった。その代わり祖母がふと現れたり、ひらひらと舞う蝶を祖母に見立てたり、不思議な話をまるで本当のことのように話すことが多くなった。

もしかしたら母は、亡き祖母との関係を再構成したのかもしれない。そしてそれは、「妄想」とも呼ばれる類に属するのだろう。そんなことを考えていたら、中学のころに友達が言ってた、「妄想」についての解釈が頭の中をよぎった。

「『妄想』ってことば、意味に少し寂しさが混ざってると思うんだ。だって漢字をみると、"亡き女を想う"って書くんだよ。きっと最初に妄想した人は、亡くなってしまった大切な女性を想って、現実では起こりえないことも考えていたのかもしれないね」





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