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すべてに意味がないからこそ

読み終わって首をかしげた。

わからなくてもう1度読んだ。

これは名文なのだろうか。それにしては意味がわからない。

inquireで開催している読書会では、『高校生のための文章読本』を一編ずつ読んでいる。今週は筒井康隆さんの『バブリング創世紀』。だが、困ったことにさっぱり意味がわからなかった。

「ドンドンはドンドコの父なり」から始まり、ドンドン、シャバダバ、シュビドゥバーなど不思議な単語がテンポよく続く。そしてテンポよく続くまま、終わってしまうのだ。

"「意味」を追い求めない、ということは、『夢の外』で描かれるように、「わからない」を認めるということでもある。またそれは、『時よ』で描かれるように、淡々と時間が進んでいくことを受け入れることでもある。私たちは目まぐるしく移り変わる現実のなかで生きている。現実は時として不条理だし、不可解である。しかし、そうした現実にあえて身を委ねることが、「意味」に囚われないで生きている、ということに他ならない。”

UNLEASHで公開した記事には、星野源の歌詞をもとに「意味」について語られていた。

日常生活のあらゆる場面で、私たちは「意味」を必死に探している。意味がないことは無駄だと信じて疑わないくらい、私たちは「意味」をもつことに必死だ。

だからこそ、文字の列挙に何の意味ももたない『バブリング創世紀』が異質で、自分のどこにも収まる場所が無かったのだと思う。

意味のもたない文章について、数人で会話をする。「音のリズムだけだよね」とか、「似たようなことはほかにもあるよね」とか、意味をもたない言葉について言葉が広がる。

言葉に意味のないものでも、思えば有名なものだってあった。ちびまる子ちゃんのおどるポンポコリンとか、いっぽんでもニンジンとか、歌詞に深い意味はないだろう。けれど私たちは、その意味のない言葉をメロディに乗せて楽しめる。意味のある言葉も、意味の無い言葉も、どちらも等しく私たちには必要で、心を豊かにしてくれるものなのかもしれない。


あんなに読み心地の悪かった文章が、読書会を経たらわすれられない一編に変わった。意味がないことにある種の心地よさを感じ始めて、眺めたり、声に出したくなったりしはじめたのだ。一人だと気づけないことも、数人で話すとその良さに気づけるもの。複数で同じものを読む、それに対する意見を言い合うってすごく尊い時間だなと思う。

意味ばかりを求めてしまうと息切れしちゃうから、たまには無意味に遊んで、肩の力を抜いたほうがいいのかもしれないな。そもそも、私たちが生まれた意味だって、よく分かっていないわけだから。


去年の毎日note


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