読書記録㉗『ちょっと今から仕事やめてくる』北川恵海著
文庫本の表紙いっぱいが白いシャツ。襟の下から垂れた青いネクタイを緩める右手。シンプルなイラストだけど、インパクトが強い。その上に赤字の手描き文字で“ちょっと今から仕事やめてくる”のタイトルである。会社勤めをしている人なら特に、ついついこの本を開きたくなってしまうのではないだろうか。ちなみに私はアルバイト経験しかないけれど、だからこそ仕事の話や職場の人間関係などの話に興味がある。
『ちょっと今から仕事やめてくる』は、2017年に福士蒼汰や工藤阿須加などがキャストで映画化もされている。公開当時のその映画のポスターと、シンプルだけどインパクトの強い本の表紙を覚えていた。それもあって、今回、自然と吸い寄せられるように本を手に取ったのだと思う。
読後感は爽やか。難しいところがなく、すうっと入ってくる文章ですらすらと読めた。読書が苦手な人でも読みやすいと思う。では、いつも通りあらすじから書いていく。
物語を読み始めて数ページ、目に飛び込んできた“サザエさんシンドローム”という言葉が印象的だった。サザエさんは昭和、平成世代の人なら知らない人がいないほど有名なアニメだと思う。サザエさんがテレビで放映されるのは日曜の18:30。番組が終わる頃には夜も深まり、もうその日も終盤。お休みモードが解かれていき、月曜の気配が迫ってくる。仕事に行くことが嫌で嫌で仕方がない人は、“サザエさんのエンディングを聞くとすごく憂鬱になって、死にたくなる”のだという。
ハッとさせられた。家と近所で過ごすことが大半な私が曜日を気にすることといえば、朝のゴミ出しくらいだ。心臓がキュッと痛くなるような緊張感は、しばらく埃をかぶっている。スーツを着て戦いに行くように、或いは自分を押し殺して引きずられるように会社へ通っている人の心の中は想像よりもきっとずっと重苦しい。
少し読み進めたところに、隆が現実逃避のために作ったという“一週間の歌”がある。的を射た表現だと思うので、引用しておく。
こんな一週間が定年まで延々と続くことを考えたら、希望がない。我慢して我慢して、それが報われることもなく、ただ耐えて今を凌ぐだけ。心身共に削られてすり減っていくのも無理はない。さらに隆は一人暮らしで実家は遠く、恋人もいなければ友人とも疎遠な状態だ。家と会社の往復で気分が塞ぎ込んでいき、まともな判断ができなくなっていってもちっともおかしくない。
そんな中で出会った、関西弁で明るく喋るヤマモトという男の存在。美味しいものを飲み食いし、なんてことない会話をするだけで、隆がどれだけ救われたかは想像に難くない。
元気のない人を救うには、寄り添う気持ちとさりげない優しさがあればいいと思う。「頑張れ」とか気合いだ根性だ、じゃなくて。根掘り葉掘り質問して相談に乗るんじゃなくて。相手がそうっとしておいてほしそうな時は身を引いても、見守る目線だけは外さない。根気強く、いつでも味方でいる。その距離感を間違えなければいい。
ヤマモトは隆に馴れ馴れしく関わりながらも、意見を押し付けたり下手な励まし方をしたりしない。隆に寄り添い続け、辛い時は逃げていいのだと伝え続ける。ヤマモトは隆の命綱になってくれていた。たった一人でも親身になってそばにいてくれる存在がいれば、人は生きていられるのだと思う。
もっと俯瞰して見れば人生は仕事が全てじゃないし、自分の居場所だって自分で選んでよくて、付き合う人間だって変えていい。でも社会はそんなふうに単純じゃない。クローゼットで着る服を決めるように、簡単に選び取れるものばかりじゃない。
必死に勉強して受験を乗り越えて高校、大学、と進学し、就職だって緊張やプレッシャーや我慢を抱えながら、落とされても落とされても面接を繰り返して‥‥。そんなふうに懸命に生きてきた人ばかりなはずだ。その競争社会から振り落とされたら、人生詰むんじゃないか、と怯えながら。
仕事による過労、鬱が原因で人が死に至るニュースを見たら、「死ぬくらいならなんで逃げなかったんだろう」という思いを抱く人も少なくないと思う。だけど、まともな睡眠も食事も取れず、相談できる人がいないような孤独な状況下では、正常な判断なんてできなくなっていく。「自分は大丈夫」だなんて、大丈夫な時だからそう思えるのだ。身体の病気が勝手に降りかかってきて進行してしまうように、心がかかる病気だって本人の意思に反して悪化していく。
日本人は特に真面目だから、自責の念でどんどん自分を追い詰めていくのだと思う。隆も途中、あまり回っていそうもない頭で「やっぱり悪いのは全部俺じゃないか」と結論づけている。読者からしたら決してそうは見えない。
普段は優しいふりをして隆を陥れようとした先輩。高圧的でことあるごとに怒鳴り散らす上司。見て見ぬふりをする職場の人たち。そんな中で働きながら隆は、懸命に誠実に仕事をしている。自分を認めてあげられない、萎縮してボロボロになった隆が可哀想で哀しかった。こんな時、もしもその自分の立場が親友だったら「お前は悪くない」「精一杯やっている」と慰めるのではないだろうか。自分に優しくない人は多いと思う。
ヤマモトが隆に「人生は誰のためにあると思う?」と問いかける場面がある。社会のため? 自分のため? と答える隆にヤマモトは“半分は自分のため”だと言い「あとの半分は、お前を大切に思ってくれてる人のためにある」と教えてくれる。隆はその言葉を聞き、自分が決して一人で生きてきたわけではないということに気づく。そして自分のことばかり考えていたことを深く反省する。
ヤマモトには隆のような人間を放っておけない理由があった。時折見せるヤマモトの表情や言動からは、その過去の傷跡が垣間見える。辛いことや悲しいこと、失敗した経験。傷を負った人間には人の痛みがわかる。暗く被害者の立場に居続けたり、自分を責め続けたりせず、誰かのために動こうとする姿勢があれば自身も癒やされていくものだと思う。主に隆目線で語られている物語では、隆はヤマモトにずっと救われているように映る。でも救われていたのは、きっとヤマモトも同じだった。私にはそう感じられた。
ヤマモトの正体。「ちょっと今から仕事やめてくるわ」とヤマモトに言い、ブラックな職場にケリをつけに行った隆。その後のヤマモトと隆の関係。クライマックスからエンディングにかけてのテンポのいい展開は、最後まで読者を惹きつける。
消えてしまいそうな危うさを見せていた隆も、終盤では未来に希望を抱けるような頼もしさを見せてくれる。“鬱”や“自殺”がテーマでもある作品だが、読み終えた人はきっとみんな、晴れ間が広がっていくような清々しさを感じられるはずだ。今仕事で辛い思いをしている人に、特におすすめしたい作品だった。
北川恵海著『ちょっと今から仕事やめてくる』。気になった方はぜひ、読んでみてほしい。