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緩く生きると周りの人も心地が良い

がんばりやさんのお母さん、保育士さん、あらゆる役割の大人たち。

がんばることは立派なこととされ、賞賛されがちで、良いこととされて来た。

少々辛くても乗り越える。歯を食いしばって努力する。そして、努力を休むことなく続ける。それが一般的には美徳とされて来た。

個人の生き方として自分で選んだ道ならば、それはいい。例えばオリンピックの選手など、努力の末に輝く姿を見ることは、多くの人に感動を与える。


けれど注意したいのは次の点だ。

その人にとってのがんばる基準が上がると、その人にとってはそれが当たり前となる。するとどうなるか?

周りの人にも同じような努力を求める。求めているつもりはなくとも、その人にとっての基準があるから、無意識にそれと比較してしまう。

周りの人が怠けているように思える。そして厳しく問いかける。

それが、その相手にとって必要なことと信じて疑わない。


けれど、人それぞれ、心の持つ繊細さは違う。がんばる基準も違う。

興味も違えば、得意なところ、苦手なところもある。

それを平等に同じように努力しろと問い詰めるのはどうか?


今日、4歳児クラスである子ども(Aくん)に厳しく問い詰めるパート保育補助さんの声が響いた。

周りに居た女の子3人ほどが呆気に取られて眺めていた。

そのパートの方はいつも熱心で一生懸命、熱い方だ。子どもの為に間違いないという信念を持って接しておられるのをよく見かける。けれど、時々、行き過ぎだな、と思うことがこれまでもあった。

保育経験は過去にはないらしく、それでも堂々としておられるのだが、今日のシーンの中、私が関わるきっかけがあったので、ふとその先生に言った。

「AくんはBくんと遊びたいだけなのですよ。」最近仲良くしているシーンをよく見ていたし、私も2人の間で揉め事がありそうな時に対応している。BくんはASDの診断が出ている子どもなので、時々ヒヤッとする場面もある。

「AくんにはAくんの想いがあるんですよ。お父さんも厳しいしね。」

するとその先生は、「淋しいの?」と手のひらを返したように両手を広げて、Aくんを抱き締めようとした。そんな先生の素直さにホッとしたりもするのだけれど、「淋しいなら淋しいって言ってよ〜」と言うので、思わず私は「言えないですよ〜💦それは、察してあげないと・・・😊」と伝えた。


このシーンからふと考えていたのは、お母さんでも保育士でも、色々なシーンで子どもを誘導しようとする力が強過ぎると、子どもは何を言われているのかもわからなくなり、ただただ自分が非難されていることに憤りを感じる。思いとは違う方向で、悪いと思っていないのに「ごめんなさい」と言わなければならなかったりする。

世の中は矛盾に満ちているから、きっと保育園の中も矛盾に満ちている。そんな中で子ども達は、自分なりの価値観を作っていくベースの時間を過ごしているのだろうけれど、出来れば無理な悲しみは生みたくない。


あれこれと指示して、子どもを動かそうとしていないですか?

いいこと悪いことを短絡的に捉えて、叱ってないですか?

その子どもの背景にあることを思い図る気持ちを持つこと、それが出来るのが大人と子どもの違いだと思うのです。

人の気持ちや立場を察すると言うのは、言葉で言うほど簡単ではないのかもしれない。でも、謙虚な気持ちを持ち続ければ、自然と察しようとする姿勢になり、その中で、子どもに伝えたいことの自分の軸が出来ると思うのです。

何から何まで大人の言うようにさせるのが、正解ではないと、今日の出来事から思いました。


また、がんばりを続けて自信が過剰になると、子どもにもそれを強いることになります。自分をたまに休ませましょう。そうすれば、子どもの疲れにも敏感に気づいてあげることが出来るような気がします。



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