義務教育とお金


 「なぜ、学校でお金の話を教えないのか」という言葉を時折目にする。

 私個人の考えであるが、学校でお金の話は必要だと考えている。
 だが、学校でそのことを詳しく教えることは不可能である。
 学校で習うことよりもお金の知識のほうが大事だと考える人もいるだろう。
 確かに、私も大人になり経済の問題に直面し、一人悪戦苦闘した覚えがある。
 学校でお金の勉強に触れていれば、確かにあれほどまでに苦労することはなかったかもしれない。

 では、学校はどこまでお金について教えればいいのだろうか。
 お金の使い方だろうか。その仕組みだろうか。それとも、契約書の内容だろうか。
 ただ、いまさらそれらを教え直すことは必要なのだろうか、と疑問にも思う。
 税金の成り立ちや仕組みは、社会科で学習しているはずである。
 また、それらの計算の仕組みも数学で学習しているはずである。
 さらに、内容の書かれた文章の読み取り方も国語で学習しているはずである。
 このように、問題を解決する手がかりは、義務教育の中に含まれていることが多い。
 しかし、そのことには気がつく人は少ない。文字を読める。税金とは何かぼんやりとでも知っている。四則計算を見た時に、それらの意味が理解できる。これは義務的に全員が身につけており、その知識を持っていることが当たり前となっているからである。もし義務教育を受けずに成人したとしよう。これらの知識はどこで、誰から学ぶのだろうか。親からだろうか。社会に出てからだろうか。果たして、本当に学ぶ機会はあるのだろうか。当たり前の知識に、人は疑問を抱かない。この当たり前の知識を国民が共有しているのは義務教育があるからだと、多くの人は気づいていない。

 「お金について学校で教えるべきだ」は何を求めているのだろうか。
 世間から求められている金銭の知識とはいったいどのようなことか。
 もっと金銭に重きを置き、具体的に内容を教えればいいのだろうか。
 教育をそのように動かす力があり、お金の内容を取り扱った「税金」の授業が設立されたとしよう。「税金」の授業では「確定申告の仕方」「住民税と所得税」「固定資産税」「免税」「消費税」など具体的な内容が学べるようになった。これで問題は解決したように思える。
 しかし問題はある。時間とともに、より他のことも具体性を求められるようになることだ。税金の仕組みが世間的に「当たり前」の知識となれば、次は他の「当たり前」を求めるようになるだろう。「政治の仕組みが知りたい」「食品調理方法をもっと知りたい」「インターネットの上手な利用法を」「子供との接し方も知識として欲しかった」など、社会生活の中で理解できなかったり、必要と思える授業展開の要望は増える一方となるだろう。
 これら全てを学校教育で行う時間はあるだろうか。限られた時間で行うとして、優先順位はどのようにつけるのか。 その順位は、その人の置かれている状況で違うのではないか。

 義務教育というのはある特定の知識を教わる場所ではないし、そうであってはならない。特定の知識のみを扱えば、また他の知識が必要となるからだ。義務教育で教えているのは特定の知識でははなく、社会で生きていくための学び方や概念である。
 国語の言葉の読み書き・計算の仕方・自然現象・社会事象・国語以外の言語 など最低限の知識をもとに、思考する練習をする場所なのである。
 時代とともに、学校現場に求められることは変わるのは自然なことだ。だが、学びの基本を教えるという一点に関しては、間違えてはいけないと私は思う。

 近年は「お金」をいかに効率的に集めるか、ということに重きを置く人が多い。確かに、お金は大切である。だが、お金を生み出している根底には、その人々の「知的活動」があることを忘れないで欲しい。そして、日本人の知的活動の基本となる知識はどこで培われるのか、それを今一度考えてもらいたい。

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