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希死念慮について振り返る

今はもうないのですが、
たぶん1年前くらいまで「死にたい」と思っていました。


なぜ死にたかったのか

たぶん、私は自分の存在を否定してしまったのだと思います。

父がアルコール依存症で、たぶん遺伝じゃないかと感じていて、
つまり私もその血を引いていて。

祖父はそのせいで、死ぬ時まで親戚一同から疎まれていたところを目にして。

父がお酒を飲む姿は、私にとってとても迷惑で、嫌で。

だから私は、私の産まれてきた家系を否定しました。

それは私にとって、自分の存在価値…人間の存在理由を「子孫繁栄」とするなら、その理由を失うこととイコールで。
私は、自分の人生に、理由を見出せなくなりました。

祖父のお葬式に出て、しばらく経ってからだと思います。
自分の血が「汚い」と思うようになりました。
お風呂に入って、自分の血流を鼓動で感じると、
全身に汚物を流し込まれたような不快感に苛まれました。

私が「死にたい」と思うのは、別にそんなにおかしなことではなかったんじゃないかなと思います。

どうやって耐えたのか

正直、耐えられてはいませんでした。笑
私が今も生きているのは、ただ運が、よかったのか悪かったのかわからないけれど、偶然の産物です。

でも、できるだけ行動は起こさないように、自分を押さえつける努力はしていました。

「明日死のう。だから今日はがんばって耐えてみよう」と、ずっと自分に言い聞かせて過ごしていました。
明日がだいじょうぶになってからは「1週間後」「1ヶ月後」に。
それも平気になってからは「30歳になる前に死のう」が、私だけの合言葉でした。

そして、今、
私は30歳を迎え、まだ生きています。

30になる前に死のうと思ってお金を使っていたので、
いざ寿命まで生きようと思うと、貯金が心もとなくて怖いです。笑

死にたいって、どういう感情か

ずっと溺れそうでした。

「限界」というラインがあるとして、
たぶん私がそれを(気づかないうちに)越えてしまったのが15歳くらいのとき。

20歳くらいになって、はっと気づいたら
もう限界ラインから100kmくらい離れた荒野の果てに取り残されている、みたいな感覚でした。

なんていうんだろう、
自分は人間じゃないべつの生物なのに、必死で人間のふりをさせられて、
そして自分の正体をだれかに看破されたらすべてを失うような、焦燥感。

みんなは平然と歩いている道も、
私にとっては水面の下で必死にバタ足してないと沈んで溺れてしまうような、
そんな感覚で生きていました。
だから普通に生きているだけで、どんどん消耗していく。

早く楽になりたい。
息ができない。しんどい。
このつらさから逃れる手段は、命を絶つほかない。はやく、はやく、だれか。
そんな感覚でした。

「限界ライン見えてきたな」って思ったのはたぶん27歳くらい、
「もう大丈夫」って思えたのは、30歳を超えたくらいのころ。すごく最近の話です。

でも、まだ心の奥の見ないようにしているところには、どす黒い「死にたい」がいる気がしています。
いるけど、目をそむけるスキルを身に着けた。あとそれに取り込まれなくて済むくらいの精神的余裕を得た。って感じかな。

死にたい人たちに贈る言葉

正直に言って、耐えろとか、耐えたら未来は明るいとか言えるほど楽じゃなかったです。
ほんとうに、しんどかった。もう無理だった。
私が今生きているのは、ただの偶然が積み重なった結果です。耐えられはしませんでした。

しんどさは、人によって違うと思います。
私はたまたまその先に未来があったからまだよかったけど、必ずそうだとも限らないし。

だから。
なにもできないけれど、せめてあなたのために、「そこから抜け出せた私」の言葉は残しておこうと思いました。
たぶん私は、あなたの希望になり得る存在だと思います。

ほんとうにしんどかった。
しんどいとか、ひとことで言い表すのはむずかしいけど、とにかくつらかった。
でも私は今ちゃんと、過去形にできています。

あなたが何で死にたいかによる話なので、よくなるとか希望があるとかは言えません。
死ぬほどつらいあなたに、他人の話をするつもりもありません。(誰かが生きたかった明日なんだとか言われても、「麻酔なしでいいから私の身体を切り刻んでそいつにあげてやってくれよ」としか思わなかったです)

ただ、ひたすらに、
あなたの心が穏やかになることを、私も一緒に祈っています。

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