点数なんか見たくない
アクティブログ(活動記録)
こんにちは、MiHaRaさんです。時間が有り余っていて暇なので、自宅から歩いて30分のところにある中央図書館にやってきました。平日の昼間だと言うのに、なかなか席は混雑しております。アタイはnoteを書くついでに書棚を閲覧して、2,3冊借りて帰ろうかなぁぐらいの気持ちでやってきました。早めにお昼を食べたけれど、少し眠い。館内で購入したペットボトルの麦茶を飲みながら、静かで開放的な空間でMacBookにタイピングをする自分に酔いしれながら、今回はこんな話をしたいと思います。
点数を見て君は何を思うか
昔から勉強ばかりしてきたんだ。別に勉強が嫌いなわけではないよ。現に、今も図書館でnoteを書きつつ、それが終わったら全部の棚を巡回するくらいの気持ちで張り切っている。医学書から子供用の絵本まで・・・。
しかしながら、昔からテストの成績は芳しくなかったという事実から逃れられない。今回は別に「テストで良い点を取るには」みたいなテクニックについて語るつもりは一切ないんだ。答案返却の経験は誰もがあるだろうさ、あの受け取った時の気持ち、そして巷に溢れるレビューの数々を見て何を思うのか、その辺りを自分なりに考察してみたってわけよ。
点数を見た多くの人の反応の推測
そりゃあテストの点数が高得点ならば嬉しいし、低ければ「もっと頑張ればよかった」とか「なんでこんなに俺って馬鹿なんだろう・・・」と落ち込んだりもするだろう。アタイが高校生だったのは既に14年前で、それから紆余曲折を経て8年後に大学に再入学し、ようやく今年の3月に日本大学通信教育部を卒業した。いささか自分の体験談が入り交じるところもあるだろうが、まぁ読んでやってくださいな。
高校の頃は、恐らく今とは大きく時代も方針も勝手も学習範囲なども変わっているだろうから、直近の大学での体験が話題の中心になると思う。だからたかが大学の学期末の試験で「単位が取れた」という程度で喜ぶ人もいれば、「優が取れなかった」と単位は取れているのに嘆く人もいるだろう。人それぞれだもんね。
評価方法の種類(一部抜粋)
点数を付ける評価方法にはどんなものがあるのか。探せばキリがないだろうから、自分が思いついたものだけ簡単に列挙するよ。
100点満点のテスト、試験
成績評価(優良可不可、SABCD)
評価(☆5段階)
レビューの投稿(数値にしない場合もある)
ランキング
それぞれの評価方法に対する憤り(何故この評価になったのか?)
100点満点のテスト、試験
答案に対して○か✗、或いは部分点をつける。高校では答案返却後に解説があったため、誤って✗になっていた部分は申告し、修正してもらって○に変わることがあった。英単語テストは満点でなければ合格とは認めないという先生もいたので、その点数を取れなかった場合は「自分の努力不足でした」と素直に認めていた。
2.成績評価(優良可不可、SABCD)
大学でありがちな単位認定の評価基準。日大通信では、試験後の答案返却や解説が行われることがほぼ無く、まず単位が与えられたかどうかで一喜一憂し、次に評価を見てただの記号だと認識して思考停止になって終わる。
基本的にアタイは出来が悪いし、やる気さえあれば誰でも入学が出来るこの学部においては、全教科満点を目指すつもりで全力で授業の試験をこなしてきた。「完全回答」これだけを念頭にやってきたつもりだったが、それでもB評価などを取ると「一体なぜ?」と怒りすら込み上げてくる。答案の返却、解説、そしてフィードバックが一切ないと書いた通りに、テストが終わったらそれで学修も終わったも同然になる。だから何が良くてこの成績になったか、逆に何が悪くて単位がとれなかったかは一生分からずに終わる。結局単位を落とした人は何が悪いか分からないまま、再び15回の授業を受けることになるのだよ。
3.評価(☆5段階)
ネットでよく見かけるあれ。最高5点満点で点数をつけて、おそらくそれらの平均点がアタイたちが目にしているものとなるのでしょう。テストや試験は基本的には先生1人が学生全員の答案に採点をするのに対して、ネットのレビューは一つの商品に大勢の人が点数をつける。しかしこれが地味にアタイをイライラさせる。
4.レビューの投稿、コメント(数値にしない場合もある)
リアルな声が聞ける。どんな商品にも必ず1人は文句をつける人がいる。この捻くれた人間に対して、アタイはどうすれば心の底から満足してくれるのかを、自分の店や商品でもないのに考えてみたりしてしまうんだ。ポジティブな内容が10個投稿されていても、1個のネガティブな内容で一気に見る目が変わってしまうと言うどうしようもねぇ欠点があることは覚えておきたい。
5.ランキング
売れ行き、人気、評判、行ってみたいや食べてみたい等の期待、面白いマンガ、・・・このようなものが1位から順に発表される。しかしながら、アタイはそれらに掲載されたランキングはチェックはするものの、実際に行ってみたり買ったりはしない。特に住みたい街ランキング等は、「どういう基準で決めてんの?」としか思えない。最も不思議なのが、これらのランキングに対する投票をいつ、どこで募集しているのかハッキリと見たことが無いところにある。
ランキング高評価を獲得してもフィードバックが無いならば、ただの名義尺度
結局、点数をつけるにしても評価にしても、信頼出来る人がやっているのか、また、どうしてその点数なのかの詳しい理由を聞かせてくれなければ例え成績でS評価をとっても「なんか良くわからないけれど嬉しい」で終わってしまう。
「名義尺度」をご存知だろうか。超ざっくり言うと、「そういう記号を個々に割り振ったけれど、特に意味はないんだよ」って感じだ。
「あなたはAとし、君はCとする、でも何故そうしたのかは特に意味がないんだ」という、そんなどうでも良い記号を与えられるのと同義に近いのが大学の期末試験だったのだ。そう、日大通信の成績評価は。
「結果さえ良ければどうでもいいじゃん」と言いたくなる人もいるだろうけれど、フィードバックを得られなければ次への改善・軌道修正が出来ないわけだ。つまりそこで終わり、人として成長しない。
逆にネット通販で不良品が届いた場合の「粗悪品を掴まされた」と投稿されたレビューに対してメーカーがコメントを出して謝罪することも散見されるが、こういうフィードバックに対しては「もうその人は返金されたら二度と同じものは買わないだろう」と思うと、あまり利口な対応には感じられない。というか、この手の投稿を見かける度にアタイの場合は購買意欲が一気に低下する。
食べログのレビューを投稿する人に対する純粋な疑問
現在は都内の山手線沿線に住んでいるアタイ。下町の方だ。去年の7月に引っ越してきたのだが、それまでは神奈川県横浜市に親と暮らしていた。
横浜といえば中華街が有名だよね。遠くから遊びに来た人を招待するときに、必ず「ここが最高に接客も料理も良い!」とアタイが一押しする中華料理店があるので連れて行くのさ。招待された人も絶対喜んでくれる。感動してくれる。しかもそこまで値段もしない。
基本的に食べログは見ない方なのだが、それでもこの店の評価が、たかが☆3.6程度で有ることに驚いた。あの接客・価格・雰囲気・クオリティなのに??
個人的には☆4.7くらいはあるのだと思っていた。スタッフも丁寧だし、気が利く。文句の一つも出ない一流の中華料理屋だと心の底から思っていた。唖然としてしまったわけだ。
そして考えてしまった。「この料理屋に☆3以下をつける人って一体普段どんな良いもん食ってんの??」と。個人的に出かけた際に、外食をするとなるとGoogle Mapsで検索をすることが多い。レビューの投稿数が3桁を超えていて☆4以上ならば、経験上間違いが無いからだ。ユーザーの民度の違いなのだろうか、Googleの方が正直な気がする。ラーメンを食べたい時は食べログを活用するが、やはり☆4を超える店は滅多に無い。確かに自分が行った店で☆4以上のところは「また食べに行きたい」と思えるものしかなく、店員のサービスも「なんでそんなに優しいの?」と、感動させられることがしょっちゅうある。それでも何故なのか低評価を付ける人はそれなりにいるし、あの中華料理屋の評価だけはどう頑張っても理解出来ない不当なものだと感じてしまう。
Amazonのレビューは衝動買いを防いでくれる?
ちょっとした電化製品や、デスクなどの家具。こういったモノはアタイの場合、Amazonで買うことが多い。探すのが楽だからというのが一番の理由だ。それでもどれにしようかと選ぶのは結構時間がかかる。何故かと言えば、「お、これ良いな!」と思ってクリックしてレビューを見るとバキバキにパーツの破損した画像が飛び込んでくるからだ。運送中にぶつけたのか、そもそも粗悪品なのかは知らんが、欲しいと思ったものが見事にぶっ壊れた画像のインパクトが強すぎて大概その時点で「購入するのは止そうかな・・・」と思ってしまう。決断が昔から遅いアタイにとって、Amazonでもモノ一つを選ぶにしても2時間くらいかかる。
レビューでは☆4近い。いいな!と思う。でもいきなりパーツが破損した投稿を目にする。そこで最終的な判断として、どのくらい低評価が集中しているのかを確認する。「たまにハズレが出てくるのか」或いは「すべからくハズレ」なのかを見極める必要があるからだ。
こうしてたかがモノを買うだけで半日終わっていたことはよくある。
判断するための情報が多すぎて、逆に買い物で失敗せぬよう一層慎重になってしまい、せっかくのPrime会員なのにほとんど買い物をしていないのは残念に感じるな。
素人の付けた点数による総合評価が、無意識に自分のモノサシになる恐怖
皆が一同に「こうなんだ!」と主張すれば、あなたは例えその内容が間違っていると分かっていても「うん、・・・そうだよね」と同調してしまうだろう。昔と今で常識が変わることは、コペルニクス的転回でも分かるでしょう。
皆が天動説だと本気で思い込んでいたのに、実は地動説の方が正しかったといった具合に。
的確な例えだったか分からないが、基本的にレビューは誰でも投稿が出来る。その道に詳しくない素人がたくさんいる。そこである料理店に対して「☆3が妥当」と誰もが口にしていたら、店に行く事前調査をした人は実際に行ってみて「ああ、なるほどな☆3程度・・・って感じだな」と言う気分になるはずなんだ。アンカリングと言ったかな。
例えば、以前アタイがアルバイトをしていたドトールのとある店舗は、グルメアプリでの評価は☆3.2くらいだった。高評価の内容には提供が早い、店が広くてキレイといった投稿があり、その逆に低評価の内容には「ジャーマンドックにケチャップがついていなかった」という書き込みが著しく店の評価を下げていることが分かった。
ドトールのジャーマンドックは、創業者のこだわりで選び抜いて作られたソーセージ、マスタード、パンが一体となって完成したものである。敢えてケチャップを通常は添えないところがウリなのだ。そのまま黙って食えよ、ウメェから。というわけです。一応お客のワガママに答えるために、言われればタダでケチャップも用意はするが、普段は絶対に添えない。
そんな創業者の理念が表向きに出ているわけもなく、何も知らないやつは「ケチャップがない!」と怒って低評価の判断を下したわけ。おそらく「これからドトールに行こうかな」と思っているお客がこのレビューを見たら「この店は評価が低いな・・・」と思い込んで、近所にあるスタバに向かってしまうかもしれない。そしてジャーマンドックにケチャップが無いのは常識だと分かっているのは店員と、一部のコアなファンくらいなものだろう。ほとんどの事実を知らない方たちは「ケチャップもつけてくれない店なのか・・・」と思い込んだまま、店員は特に悪いことをしていないのにお客は来なくなるかもしれない。
説明書の読めない人間の投稿は一発で分かる
上述したとおり、引っ越した際に家電を一式揃える必要があった。特に洗濯機をどうするかで悩んだ話をしよう。アタイは基本的に同じ服しか着ない。そもそも出かけないからだ。なので小型の洗濯機で十分だと判断し、Amazonで調べる。そこそこ評価が低いが、低価格でちゃんと洗濯が出来る上にコンパクトな一品を見つけた。先程も「破損した画像がまず目にとまる」と書いたが、この商品も似たような感じだった。「〜をしたら壊れた」「外でも使えると書いてあるのに、外に出しておいたら2週間で壊れた」といった具合だ。
アタイとしては「まぁ雑に扱ったから壊れたんだろう。1万を切る価格なので、安かろう悪かろう」という判断で購入に至った。
今どきの人たちはどうなのか知らないが、アタイはちゃんと取り扱い説明書を読む人間だ。まずこの洗濯機は使っていない時は電源を抜く、直射日光に本体を当てない、規定量以上に水を入れない などが書いてあった。
レビューに書いてあったトラブルのほとんどは説明書で「避けるべき事項」として明記されていたのだった。
これを機にアタイはAmazonのレビューの内容を読んだだけで、説明書の読める人間とそうでない人の区別がつくようになった。そして例外なくこうした人達は、日本語の扱いが上手くない。
結論:お前は何様なんだ??
長くなったが結論に入ろう。まず評価には1人が全員に採点をするものと、一つのものに対して複数の人が評価する場合があると書いた。大学の試験が前者で、ネットのレビューが後者だ。
前者の場合は評価の判定に信頼性がある。ただし自分の通っていた大学では答案返却もフィードバックも無かったので、あまり意味がなかった。
一方、後者の場合は様々な人が自由に投稿している。そして自分は「良い」と思っていても大勢の人達が「これは駄目だな」と同様に口にすると、途端に自分もそう感じてきてしまう。
だからなのか、アタイは点数を見るのが嫌いなのである。週末に出かけようと思ってグーグルマップを開き、気になるところをクリックしてみると嫌でも評価が現れてくる。「自分は興味があるのにな・・・」とちょっと期待していたのに、低評価だと途端に行く気を無くす。こうしていつもアタイは出かける先がスーパーと図書館、そして銭湯、あとはどこかの博物館に行く程度になってしまった。
そもそもレビューに投稿している人たちは、どういうつもりでやっているのだろうか。良さを共有したいのか、落ちぶれさせたいのか。慈善事業のつもりでやっているのだろうか。
せめて飲食店の味を評価するならば、投稿者自身も飲食店関係の仕事に就いていた経験のある人でないとフェアじゃないだろう。
Amazonで売られているものだって、そもそも自分じゃ自力で作れないから購入するんだろう。「俺の方がもっとマシなもん作れるから」なんて書き込みは見たことがない。
確かにお金さえ払えば食べたい物が口に出来、欲しいものは自宅にいながらにしてほとんど手に入る。それでも作ってくれた人、届けてくれた人に対しては敬意を払うべきだと思うし、もっと言うならば「人様の仕事に文句を言い、点数をつける素人」という存在は如何なもんかと思う。
飲食店でも食べる時に「頂きます」を言える人が随分と減った気がする。その代わりシャッター音が飛び交うようになった。グルメアプリにレビューを投稿するのか、SNSで共有するのか。撮った写真をどうしようが勝手だが、それをネットで誰もが見える位置に貼り付けて「味付けが濃い」とか己の主観だけで評価するような人とは、少なくともアタイは一緒に食事を共にしたくない。
ネガティブな評価というものは、他者がこれから利用しようと思っていた商品の期待を払拭させて白けさせる。だから点数を見るのは嫌いなんだ。
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