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「その時代の価値観」と「今の価値観」が ぶつかり合うところ

戦国ものの時代劇やドラマを見ていて、いつも違和感を抱くのは、政略結婚する姫君を「家の都合で結婚相手を決められ、自分の愛する相手と結ばれない悲劇の存在」に描くことです。

戦国時代に生きていたわけではないので本当のところは分からないけれど、彼らの時代の価値観では、「好きな相手と結婚できないから不幸」ではないと理解しています。どちらかと言えば、「家のために役立つことができる誉れ」じゃないのかな? その感情は、無理しているとか、そう思わされてる、って言うのとも、ちょっとニュアンスが違う気がする。そういうものだったから、それしかなかったと思うんです。

自由恋愛という概念のない時代に、「自分の好きな相手を自分で選べないことが悲しい」とは思わない。というか、そういう発想がない。だいたい、自由恋愛の歴史だって、結構浅いですよね。ちょっと前の日本では、お見合いが多かった。もちろん、相手を好きになる、という感情はあると思うんです。結婚してから相手を深く知り、結婚してから改めて好きになったんだと思うんですよ、きっとね。

時代劇を観ながら、作り手にとって匙加減が難しいだろうなぁと思うのは、そういう、「その時代の価値観」と「今の価値観」が違うところです。歴史を作るのは結局人なので、歴史をベースにした物語は、人を描く物語になることが多い。だから、その人物の在りようや、心の動きに共感してもらいたい。「時代の価値観」に寄せすぎると、今の私たちにはピンと来ないこともあるけれど、「今の価値観」に寄せすぎるとその時代の物語である必然性がなくなってしまう。

きっと「時代は変わっても、人として変わらないもの」を、いかに描くか、ということを考えているのだろうなぁと、一視聴者として、勝手に思っています。

例えば、人の命を奪うことに躊躇のなかった時代だとしたら、その躊躇のなさは、堂々と描いてほしい。とはいえ、そんな価値観の時代であっても、近しい人を失えば悲しいのには変わりないと思うので、そういう、時代に関係のない普遍的な悲しみは、悲しみとして描く、ということですよね。

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さて。毎年、大河ドラマは観ています。好みと合わなくて途中で観るのをやめた作品もあるけれど、歴史物語が好きなので、比較的じっくり観ています。今年は、なんか、いつもの年とは違う楽しさがあって、色々楽しい。

色々楽しいの理由の1つは、中学生の頃、平安時代にはまった、という理由もあると思います。あの時代の文化、風習、価値観。憧れはしなかったけれど、興味深かった。

そういう意味で、第11回の、まひろと道長のやりとりは、ドラマとして良くできているなぁ、と思ったんですよね。

「北の方としては迎えられないけれど、妻(=妾)になってほしい」という道長の言い分は、今の価値観ではどうしようもない言いぐさに聞こえるけれど、時代の価値観を考えたら、おかしくはない。むしろ、身分の違いや、自分の立ち位置を考えた上で、一番誠意のある方法は何かと考えた結果だと思うんです。

実際、その少し前の場面で、男性が複数の妻を持つことは当たり前であることが語られています。時の摂政の息子である道長が、政略結婚的な婚姻を求められている描写も何度も出てくる。
だから、元平安ファンの私としては、道長の発言に嫌悪感は抱かなかった。それしかないよなぁ、という気持ちでした。

ただ、「当たり前」であることと、「納得すること」は話が別です。
その時代としては当たり前の価値観でも、本心はつらい。大切な人に、たった1人の人として大切にされないことの切なさは、時代に関係なく、沸き起こってしまう感情です。

SNSなどで、この場面のまひろの哀しみが、源氏物語での紫の上に繋がってくるというコメントを観ました。紫の上は、時代の当たり前に向き合いながら「女性というものは、なんと辛いものか」と嘆くんですよね。

その時代特有の価値観と、時代に関係なく沸き起こる感情。その双方がぶつかり合う渦の中で、言葉が紡がれる。

時代劇の醍醐味を観たなぁ、という気がしました。

今年の大河をきっかけに、清少納言の小説を読み直したのですが

なんだか、源氏物語も読み直したくなってきました。『あさきゆめみし』にしようかな。

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