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「言葉」は 誰かに向けたラブレター

枕草子の「春はあけぼの」って言うのは、「春はあけぼのが一番!」という自分の好みを主張するだけの意味ではなく、誰かと一緒に春のあけぼのを観た時の情景を思い出しているような文章だと感じた・・・というような意図のコメントを読みました。

どこの誰のコメントかも分からないし、ここで勝手に引用しても良いものかも分からないのですが、とてもとても共感して、あぁそうだわ、とすごく納得したんですよね。

枕草子において、「美しい景色を一緒に眺めた誰か」と言えば、定子さましかいない訳です。

清少納言は、定子さまのすばらしさを繰り返し繰り返し語っています。それでいて、中関白家の不幸な出来事は1ミリも書かない。彼女の作り上げたサロンの華やかさだけを記録に残そうとするように、軽やかに綴っています。

枕草子の主役は、清少納言ではなく、定子さまかもしれません。

「清少納言の好みや感性を主張した文章」だと思っていたものも、もしかしたら、サロンにおいて「かわいいものは何かしら?」とお互いに出しあっておしゃべりしたものの記録かもしれないのです。(清少納言を主人公にした小説『むかし・あけぼの』には、そのような描写がありました。)

春の日の朝、だんだん白くなっていく山際を、「だんだん色が変わりますねぇ」と言いながら、定子さまと一緒に眺めたかもしれません。その記憶があるから、「春のあけぼの」は、清少納言にとっては、特別な時間なんですよね。きっと春の夜明けの空を観るたびに、定子さまのことを思い出すのでしょう。

何より清少納言がさすがだな、と思うのは、読む人によって、この思い出は、恋人同士でも、親子でも、成立するところですよね。

言葉って、誰かに向けたラブレターなんですね。
性別とか、関係性とかはどうでもよくって、自分が大事に思う相手への想いを載せたラブレター。

なんだか、そのことが、きゅんと心に沁みた、「知らない誰かのコメント」でした。

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