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大成功に見えたイベントが物足りなく感じた理由

先週末、イベントを実施したんです。
親子に向けたイベントです。働く大人をゲストとしてお招きし、その人の話を聴いたり、仕事に関する体験をしたりする会。子どもたちに、様々な生き方をしている大人に出会ってもらいたい、という想いでスタートした企画です。

もともとは、そういう想いを持って、個人で実施されている方がいて、それを、もう少しがっつり進めていこう、ということで、企画を進めてきました。私は、言い出しっぺではなく、「仲間に入ってくれない?」って声をかけて頂いて、仲間に入った1人です。

週末のイベントは、まずは1回開催しよう、ということで実施したトライアル回のような位置づけでした。参加者の方たちは、とても楽しんでくださって大満足。会の運営も、だいたいスムーズに進み、「うまくいったね」と評価できるものでした。

それなのに、私の中に、「今日はうまくいって良かった!素晴らしい!」という気持ちが湧いてこなかったんですよね。「どうだった?」って聞かれたら、「うん。まぁ、無事?に、終わったかな」と答える感じ。
私だけじゃなくて、他の仲間たちも、「みんなが喜んでくれたのが、よかったねぇ」と、若干歯切れの悪い感じでした。

今日、振り返りのミーティングを持ちました。
そこで分かったのは、チームとしての事前の意識共有が充分でなかった、ということでした。

正直言うと、驚きでした。どういう場を創っていきたいのか、何を大切にしているのか、参加者に何を感じてもらいたいのか・・・最初の段階で、ものすごくたっぷりと時間をかけて、何度も話をして、そして、企画を進めていたからです。

理念的なことのすり合わせはできていたんだと思います。ただ、その理念をプログラムという形にした時に、どういう風に反映させるか、ということが、共通理解として足りなかった。例えば、「失敗したっていい、という価値観は大事にしたい」と言う共通認識はあった。でも、人によって「失敗という機会そのものが大事で、そのことの意味を後から気づけばいい」という人もいれば「失敗した時の親の関わり方について、子育てのヒントとして親が持ち帰れるものが必要」と考える人もいた。

その理解が1人1人違っていたんです。実際に実施したからこそ、初めて気づけたんです。

1人1人が、自分の持ち場において、それぞれに「理念に照らして、適切だと思う振る舞い」をしていた。でも、それがちぐはぐだったんでしょうね。だから、企画全体を見た時に、「なんとなく、しっくりこない」と、誰もが感じていたのでしょう。

繰り返しますが、参加者の方はとても満足していました。だから、体験イベントとしては、大成功なんです。でも、想いを持って、その想いを実現させたい、という目的に照らすと、なにかが、ちがう気がした、ってことなんです。

じゃあ、どうしたら良かったのか。たぶん、事前にもっと細かな状況を想定して、進行を1つずつ確認し、その中で、お互いの違和感をもっともっと言葉にしていく、という作業が必要だったのだと思います。

実は今回は、理念を具現化する、という抽象的な部分だけではなく、実務的なところでも、「あ、久しぶりに、はじめましての人との仕事をやっているな」と感じる場面が時々あったんです。「自分が当たり前にやっていたことと違う進め方が色々あるなぁ」と感じていました。

その時に、どこまで伝えるのかは、難しいところがあります。「こっちの方がやりやすいと思うよ?」という提案が、相手にとって役に立つこともあるでしょう。(私の方が、人生/実務ともに、経験が長いので。)
ただ、私の従来のやり方が、誰にとっても分かりやすいかどうかは分からないし、全部を自分の色に染めるつもりもない。「このやり方はどうかな?」と提案するとしたら、どのタイミングで(あんまり作業の出戻りがないように)、どんな風に伝え(相手の進め方も尊重したい)、どうするか(別に私流のやり方に修正したい訳じゃない)、というところは、悩ましい。
色々な人のやり方の、いいところを持ち寄ったり、違う考え方を知ることが、仲間で進めることの醍醐味であることは間違いないのですが、その醍醐味を生かすには、根気良くすり合わせることが必要なんですよね。

少し話は逸れますが、フリーランスで仕事をしていながら、常々一番の問題だな、と感じていたことの1つが、「当事者意識が薄い」ことでした。仕事を請ける立場の時に「私なりの思い入れやこだわり」は、あまり必要がない、何なら、邪魔になることも多いのです。大事なのは、「クライアントのこだわり」で、それを汲んで形にするのが、こちらの仕事です。だから、「個人的には、こっちの方が好みだけどなぁ」とか、「私の価値観とは違うけどな」とか、思うことがあったとしても、それは、当然、言わない。何かを選択する必要がある時には、判断するための材料は用意するし、意見を問われれば答えるけれど、決めるのはクライアントであって、私は従うだけ。その働き方が常態化してしまうと、何かに違和感を覚えたとしても、「まぁわざわざ指摘しなくてもいいや」という気持ちになりがちです。

私に関して言えば、今回は、あえて当事者意識を持ちすぎないようにしてきた働き方の影響が悪い風に出てしまったような気がしました。私は、発起人の想いを汲みとって、そこに照らし合わせて良かれと思う振る舞いをしてきたけれど、「チームでやっていこう」という時に、その関わり方は適切ではなかったと思うんです。チームのプロジェクトとして、どうしていきたいのか、全員に意見と責任がある。その中で1つのものを創っていくんです。

考えてみれば、フリーランスで働き始めてから、自分のこだわりのあるものは、自分1人で進めることが多かった気がします。誰かと一緒に組む時も、気心の知れた相手であることがほとんどだった。だから久しぶりの「バックグラウンドが違うひととの協業」です。そりゃ、仕事の進め方から、理念の落とし込み方まで、何もかも違って当然。そして、その違いがあるからこそ、チームに加わる意味があるんですよね。同じような人ばかり集めても、差異から生まれる化学変化は起こらないですもんね。

そう考えてみれば、このプロジェクトは、私にとって、久しぶりに、仲間とガンガンぶつかりながら進められるチャンスなのかもしれません。ちょっと物足りなかった想いを次にどこに生かしていくのか、まだまだ自分が試されている気がします。

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