「君は不採用だ」自分を否定する言葉に傷ついた日もあった。 それでも手放さなかった「夢」を大切に生きる。

「君は不採用だ」。約20年前、希望している企業の説明会で、採用担当者にTさんはこんな不躾な言葉を浴びせられた。応募する前にこんなことを言われたら、誰しも「こんな会社に入るもんか」と憤るだろう。今なら腹が立って、SNSで拡散してしまう人もいるかもしれない。けれど20年前は、こんな横暴なことがまかり通ってしまうほど、企業の立場は優位だった。

心が 「削り取られた」就職活動

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三重県を出て福井の大学に通っていたTさんは、上記のような体験以外にも、就職活動においてたくさんのつらい思いをした。

「先輩からも就職が難しいと聞いてはいましたが、自分が就活を始めてこれほどのものか、と身にしみて感じました。最初は都内の大手出版社を希望していましたが、ことごとく落ちてしまい、IT分野にも広げて就活を行いました。応募先からいつメールの返信が来ても返せるようにと、インターネットがつながる大学の研究所にこもりっきりでしたよ。当時は、家にインターネットなんてなかったですから」

50社以上に履歴書を送ったが、良い結果を得られなかった。挙句、冒頭のような言葉を投げつけられるようなこともあった。徐々に食事が喉を通らなくなり、内定をもらった友人たちとは話せなくなっていった。就活のために東京へ大阪へと足を運ぶうちに、資金は底をつきた。

必死になって取り組んだ就活が実ることはないまま、大学卒業を迎えた。資金はつき、心もからだもボロボロの状態だったTさんは、いったん実家のある三重県に戻ることにした。

「傷ついたというよりも、心が『削り取られた』んですね。福井から実家に帰ったその日は、倒れるようにぐっすり眠りました。けれど次の日、母が僕の顔を見て今まで見せたことのない表情で『助けてあげられないよ』と言ったんです。母もつらいだろうけど、私も本当につらかった」

夢だったメディアの仕事へ

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親には「お金を稼ぐからしばらく家にいさせて欲しい」と頼み、週末に派遣会社でインターネットのプロバイダ販売の仕事をしながら、平日は就活に勤しんだ。インターネットを使って就職先を探していたが、母からは「パソコンばかり見て、何をしているの?」といぶかしがられ、しょっちゅうケンカになった。弟からは毎日「就活どうなん?」とプレッシャーをかけられ、毎日がおっくうだった。

稼ぎを増やそうとゲームセンターのアルバイトを受けたが、「無職=仕事に対してやる気のない、実家にパラサイトしている人」と捉えたようで、心のない態度をとられた。この頃、Tさんのような人を「夢に向けて頑張っているんだ」と理解する人は少なかった。Tさんの心は、さらに疲弊していった。

それでもTさんが夢を諦めることはなかった。出版社や広告代理店の中途採用を見つけては、かたっぱしから応募した。メディアに関わる仕事がしたい一心で、募集をしていない会社にも問い合わせた。

「失うものはないと、恥をしのんで捨て身で就活に取り組みました。そのかいあって、夏頃にようやく県内の情報誌の会社の面接にこぎつけました。1週間後に採用通知が来た時は、涙がでるほどうれしかったです。親も喜んでくれて、その日の夜は家族で近所のファミレスにいきました。この日のファミレスの味は、生涯忘れられないですね(笑)」

念願のメディアの仕事。営業と編集の仕事を兼任しながら、懸命に記事を書いた。一縷の希望を見失わなかったからこそ、掴んだチャンス。決して離すまいと、毎日仕事に打ち込んだ。けれど、またしてもTさんにアクシデントが襲う。入社した3ヶ月後、会社は親会社に吸収されることになり、Tさんの所属部署がなくなってしまうことが決定したのだ。

当時の編集長を中心に新会社を立ち上げることになり、Tさんも編集長についていくことを決めた。しかし、不景気から広告収入が激減。経営が困難となり、会社ごと出版社に買い取られることに。

「出版社に買い取られる時に、リストラもあったんです。自分も残れるのか不安だったんですけど、がむしゃらに働いた結果なのか、営業成績やライティングを評価していただいて、残れることになりました。もうこれまでのしんどい経験もあったので、『何でも来いや!』みたいな気持ちでしたね」

そこからは、1年に2種類の新しい情報誌を創刊することになり、大忙しとなった。営業や編集業務に打ち込み、今日まで夢だった編集者として充実した日々を送ることができているそうだ。

働くことで見えてきた、故郷への思い

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つらい思いもたくさんしたけれど、就職氷河期を乗りこえた経験が自分を強くしてくれたと話すTさん。あの頃について今、何を思うのだろうか。

「あの経験があったから、つらいときがあっても多少のことは、かすり傷やと思えた。総じて自分が強くなるきっかけだったと、すごく前向きに捉えています。今回みたく誰かに経験を伝えていくことも、就職氷河期を経験した僕の使命なのかなと思っています」

一度は東京の大手メディアを目指したTさん。就職氷河期によってその夢が絶たれ、地元に就職したことに悔いはないのだろうか。そうたずねると、「今の僕を、ミスターローカルだよ!って言ってくれる人もいるんです」と言って微笑んだ。

「地元で仕事をしていると、学生時代に厳しかった先生に会って意外な一面を知ったり、昔は喋らなかった同級生とご飯に行くようになったり。学生時代を過ごしたまちは、こんなに面白かったんやって気づけたんです。情報発信の仕事をしていると言えば、いろんな方が協力してくださるし、本当にあったかい場所なんですよね。やっぱり三重で就職してよかったなって、日々思うんです」

地元の人たちへ生活に必要な情報を届けることで、少しでも地域に貢献できていると充実感を得られる。東京で働くことに憧れていたTさんが、地元で働くことで生まれた、深い感謝の気持ち。つらい体験から自分を救ってくれたのは、故郷だった。

「だからこそ、残りの人生は地域への恩返しをしたいですね。今は、東京じゃなくてもできる仕事がたくさん増えた。昔の僕みたいに、若い子たちが東京に憧れるのも理解できるんですが、そういう子にこそ、三重からでも、小さい企業でも、できることはたくさんあるんだよって思ってもらえるようなきっかけ作りをしていきたいですね」

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Tさんは、最後まで夢を手放さなかった。夢を持ち続けられたのは、自分の可能性を否定せずに、できる範囲で目の前にあることに取り組んできたからだと教えてくれた。

あなたの夢は、夢だったことは何だろうか。もしくは「夢」なんて大げさじゃなくてもいい、明日やってみたいこと、でもいい。

なにか心に浮かんだことがあるならば、自分のできる範囲で始めていこう。自分の思いを人に伝える、気になることを調べてみる。大きな一歩を踏み出すというよりも、ドアノブに手をかける。そのぐらいの気持ちで始めていこう。

文・三上由香利(OTONAMIE)


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