#4 生きるとは表現するということだから
河瀨直美って知ってますか?
奈良県出身の映画監督。97年のカンヌ国際映画祭でカメラ・ドール(新人監督賞)を日本人で初めて受賞した人で、私にとっては運命の人。この人との出会いが自分の人生の方向性を決めたと思っている。
将来にモヤモヤしていた大学時代、河瀨直美との出会い
芸術大学の人文学部3回生の頃、好きな授業以外はさぼりがちで単位も落としまくり卒業が怪しいレベル。ぼちぼち始めた就職活動では自己アピールできることなんて何もないんじゃないかと自己肯定感が地の底を這っていた。そんな頃大学でこの監督の講演会が開かれることを知った。
27歳でカンヌ映画祭の新人賞をとるなんてすごいな。
濃い緑につつまれた吊り橋を渡る人、連なる山々の景色。ポスターがとてもきれいで自分の生まれ育った町を思い出した。
この人のことを知りたい。
講演会の前に河瀨直美作品の上映会が行われていて「萌の朱雀」以前の製作作品を観ることができた。
「につつまれて」は、河瀬直美が初めて手がけた作品。実父と生き別れ、実母とも暮らすことができず、母方の祖母の姉が育て親となる複雑な家庭事情を抱えている。そんな自分と向き合うために、役所に戸籍を確認しに行きそこから失踪した父の姿を追っていく。その自分自身を映し出したドキュメンタリー映画。
「かたつもり」は、実の祖母ではないおばあちゃん(養母)と暮らす日常の何気ない風景を切り取ったホームビデオのような作品。
どちらも自分を徹底的にさらけ出すことで、自分の悲しみを癒し、自分の闇と向き合う。そんな彼女の作品に、私自身もこの先どう生きていくのかを決めるために、自分自身に向き合うことが必要なのだと感じさせられた。
学歴社会の現実を知る
いわゆるロストジェネレーション世代。就職活動を始めたが、当時は就職超氷河期時代。
私が通う無名私立大学にはまともな企業の求人募集はほとんどなかったし、まともな募集があったとしてもそこは優秀な学生に紹介されて、単位を落としまくりのダメ大学生の私が受けられる会社なんてなかった。
「ものを書く仕事がしたい」、小さい時からぼんやりと思っていた。
街角で配られているフリーペーパーの学生ライターとしてお店やイベントの紹介記事を書くのが楽しかった。当時マスコミは一番人気の職業で、10数万円を払ってマスコミ塾に通ってみることにした。
そこに来ていたのは京都大学や同志社など一流大学の学生ばかり。みんな短期留学したとか企業のインターンシップをしていたとか、輝かしい自己PRをたくさんもってる人が多かった。
場違いなわたし。
エントリーシートをたくさん書いて応募しても、みんなが通る書類選考がそもそも通らない。大学のレベルでスタート地点が決まるという、うすうすは気づいていたけど学歴社会の当たり前の現実を身をもって知った。
雑草には雑草の生き方がある
そんなころ、自分の大学でマスコミ塾が開かれることになった。
政治から芸能ゴシップまで「タブーなき雑誌」を標榜する「噂の真相」という過激な雑誌の編集長が講師。雑草には雑草の生き方がある、裏ルートの歩き方というようなマスコミセミナーだった。
まずは都会の下請けの下請けくらいの編集プロダクションから初めて、記事を書いて実績を上げて少しずつステップアップしていく。そのためには、エログロ問わずどんな仕事でもどん欲にこなし、人が嫌がる仕事程喜んでやれといった内容だった。
素直に信じた私は、大学OBのフリーライターのアシスタントになって、ホームレスが多数寝泊まりしている西成に取材に出かけたり、京都のポルノ映画館に行って潜入ルポを書いたりもしてみた。
同じような仲間がいたし、それなりに書くことが楽しかった。でも、やっぱり何かが違うという違和感。違和感の正体がわかったのは河瀨直美の講演会に参加したてからだった。
生きるってことが表現するってことだから
カンヌ映画祭で受賞した「萌の朱雀」を鑑賞した後、監督を囲む質問会が開かれた。学生を相手に、一つ一つの質問に丁寧に答えてくれるのが印象的だった。
東京が中心の映画界で、奈良を活動拠点にしていることに質問があがった。
「ただ映画を撮りたいのではなくて、私が撮りたいものはすべて私が生きてきた奈良にしかないから。何もかもがどんどん流れていく東京ではなく、むしろ私には自分をしっかり見つめられる奈良でないと映画が撮れない」
「友だちと話すことも、今日食べる晩ごはんを何にするか決めることも、私にとっては生きるってことが表現するってことだから。私にはたまたまその方法として映画があった。それを認めてもらえたことはとても幸せなことだけど、もし映画でなかったとしても私は表現を続けていると思っている」
人生の節目に思い出す言葉
河瀨直美の講演会に参加するまでは、東京に行ってライターになろうと思っていた。河瀨直美の作品を見て講演会で話を聞き、私は「ただものを書いてお金をもらえるようになりたい」のではないとわかった。
ちょうどその頃、祖母が心不全で入退院を繰り返しており、祖母が長期入院した際には母と交代で病院に泊まり込んで付き添いをしていた。死を目前にした祖母の姿を写真に撮り、祖母が私に話す言葉の一つ一つを書き留めるうちに、私の表現したいテーマは「いのち」なんだとわかった。
河瀨直美の言葉と祖母に導かれて、私はそれまでまったく考えてもいなかった、地元で小さな新聞社の記者として生きる道を選ぶこととなった。
新聞記者となり、そして結婚して、子どもを産んで、助産師になった。記者を辞めて助産師になろうと思った時、小さい頃から夢だった「ものを書く」という仕事をやめると決めた時、河瀬直美の言葉をかみしめた。生きるってことが表現するってことだから、私は助産師として「いのち」を語る表現者でありつづける。