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なんで毎日走るのだろう

私はほぼ毎朝走っている。平日は6kmほど、休みの日は10km以上。何年も続けている。多少の雨でも走る。雪でも走る。二宮金次郎か!と自分に突っ込みたくなるほど飽きもせずに毎朝走る。自分でもなんで続けられているのか、ちょっと不思議である。何故なら自分は飽き性だから。

大学生の頃は絵画などアートを専攻し、そこからカーレースに燃え、後に歌うことに目覚め、次に演劇と、やりたいことがコロコロ変わってきた。ただ、飽き性というと語弊もある。どれも飽きたわけではないから。形は変われど、自己表現に変わりない。と、昔はよくそう言ってた。そしていまでもそう思っている。ただ、今はどれもやっていない。

やっぱり、飽き性か?

だから毎朝走っているのが自分でも意外である。何年も走り続けたことによって飽き性という気質が変わったのか?他のことでももう少し辛抱して続けられるようになったかも。多少だが、集中力と持続力がついてきたかもしれない。

身体を動かしているだけなのに不思議なことである。

走った後に長風呂というご褒美を用意しているから続いているのかもしれない。ぬるめのお湯にじっくり30分以上つかってじんわり汗をかく。お風呂の蓋をテーブル代わりにしてNetflixなどでシリーズものを観る。炭酸水など飲み物も持ち込んでだらだらと汗をかきながら、喉をゴクゴクいわせて飲み干す。

最高だ。朝から最高な時間を毎日欠かさず楽しんでいる。

これが走った後のご褒美である。つまり、毎日自分にご褒美を与えているのだ。

この運動とご褒美という組み合わせが継続を促しているのかもしれない。

大人になってしまうとなかなか人は変わらないと思っていたが、そうでもないようだ。昔なら気になったことが今では気にならなくなっている。人の目や他人にどう思われているか、若い頃は気になるものだ。今は人は人、自分は自分と割り切れている。そして、みんながみんな変な人だから自分も変わっていてもよいという理屈で生きている。そうゆう風に考えられたら人が自分から見て変わっていたとしても許容できるようになってきた。

でも、これは俗にいう「おばちゃん化」か?

それならそれで、とても幸せなことかもしれない。

少し前までは集団の中でうまくやろうと頑張っていた。そしてうまく馴染めずにものすごく悩んだりもした。会社という大きい組織で働いていたので余計に人間関係に悩んでいた。猪突猛進な性格な故、こうと思ったら周りを見ずに突っ走ってしまい、気付いたら一人孤立しているという。そしてうまく立ち回るのが得意でもないし、空気も読めない。他人に対する陰口を楽しめる性格でもない。上司にあだ名をつけて悪口をいう人たちの輪にもなじめない。もしかして、あだ名がつけられていた側にいたかもしれない(今、書きながらふと、気づいてしまった)。そんな自分の至らなさに(集団に嫌われる)悩んだものだ。(きっと悩んだと思う)不器用な自分に。

それが今や気にならなくなったのだ。会社という大きな組織をやめたのが大前提かもしれないけど、人間関係に悩まなくて済むようになった。やりたいことややりたい仕事に集中できるようになった。これも毎日走っているおかげなのか?何かをコツコツをやり続けてきたことから自信がついたのだろうか?もしそうだったら、若い頃からずっと走っていたら、どんだけの自信がついたことか。(それはそれで大変だな)

いや、歳を取ったおかげだろう。それなら素晴らしいことだ。ビバ、エイジング。

明日もきっと走るだろう。


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