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ホモデウス録

古代ギリシアのどんなに有名な戯曲や詩でも、三国志でも、また日本昔話でも、そこには"英雄"という存在がいる。
物語のなかでは、悪というものが在る。彼ら英雄はその悪を打倒する決意を抱き、見事敵大将の首を持ち帰ったり、逆に無残にも返り討ちにあってしまうこともある。

さて、世界各地の古典文学に登場する彼らに共通する特徴と言えば、その線形性である。直線性だと言ってもいい。
『桃太郎』では、流されてきた神憑りの桃から生まれた男児が、竹のような成長を遂げ、育ててくれた爺婆の財が鬼に奪われてしまっていることを知って、養育の恩返しに鬼らの討伐と財宝の奪還を決意する。かれの英雄性が帯びる。道中、下等の動物を麻薬で従わせながら、とうとう羅刹の住まう本拠地に着き、見事天誅を下して財を持ち帰る。だれでも知る話しだ。
されど、桃太郎が育てられ、克己し道中で仲間を作り、敵を打ち倒して凱旋するというこの一連の英雄的行為のどの時点でも、桃太郎が如何に物事を捉え何を思いまた彼の中の何が変化したか、私たちは知らない。英雄という極太の芯が、ただ彼の行動をあらかじめ規定しているとさえ感じられる。
桃太郎というのは、神が臣民に贈りたまうた器械にすぎなかった。ただそこにあるのは、ホモ・アルジェブラ・メタラムだ。
桃太郎の線形性は、古代ギリシアの英雄の中にも観測できる。

しかし、現代の文学はもっぱら非線形だ。
『走れメロス』は古代ギリシアの時代背景を持つ作品であって、一見ギリシア人の残したほかのさまざまな物語を、現代・太宰治がパロディ作品として描写しているように見えるし、小中学生の私はそういうものだと思っていた。
しかし、このメロスが古い英雄作品と違うのは、かれの心情描写にある。メロスは激怒する。ちらと疑う。怖くて走る。短い時間で起こる彼の激動の数日を密度の濃い描写が表現する。
桃太郎の、ただ器械仕掛けであるのとは違う。いまや真にメロスこそ主人公であり、人間である。
感情描写がありありと伝えるのは、じつはメロスは非線形であるということだ。直線ではないということだ。彼は自信をもって加速し指数関数的に生きる瞬間もあるし、デプレッションがあり後退する瞬間もあれば、振動する瞬間もある。心情を書きだすことによって、その不確実な挙動に忠実に、非線形性を発見させる。
現代の海外文学にも言える。『ユリシーズ』や『罪と罰』…。

これがハラリの云う人間至上主義という新しい宗教の、新しい物語である。
英雄の直線ではなく、一個人の曲線を描くのがヒューマニズム文学だ。
この新しい物語が如何様に私たちに意味を与えるのか。
この本の続きを読むのが楽しみだ。

ナッジが自由意志を滅ぼすか?

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