なぜ日本の絵師は自分より上手い絵師を目にすると「自分を否定された」ように感じるのか




「自分を否定された」と思い込みやすい日本人?

なぜ日本の絵師は自分より上手い絵師を目にすると「自分を否定された」ように感じるのか…は日本人の議論下手と根っこは同じなのではないかと思う。
例えば自分への反対意見や批判をイコール自分への人格否定だと感じる人がかなり多いと巷間でもよく言われてるし個人的にもそう感じる。
日本人の議論下手の原因については日本人特有の
・自己評価、自己肯定感が低い
・協調や和を重んじる空気を読む文化
・「人格」という西欧から輸入された概念への理解の乏しさ
・教育カリキュラムに組み込まれていないのでディスカッションの技術が未熟
などが原因と言われているようだ。

現実逃避の逃げ場としてのお絵描き

絵の場合はそれに加えて生きづらい現実からの逃避先としてのお絵描き、という構図があるのではと思う。
現実に居場所が少なくて、絵を描いてる時だけはここが自分の居場所だと感じるようなパターンだ。
元々私自身がそうである。
ただ絵描きの全てが現実逃避では勿論ないだろう。
リア充絵師なんてのも実はたくさんいるのかもしれない。
(ただ、リア充絵師は上手い絵師を目にして自己否定された!とかあんまり考えなそうな気がする)

いずれにせよ、現実に居場所がないタイプの絵師が自分の思い通りの結果が得られないと「私の居場所が本当になくなる…」と危機感を持つのかもしれない。

最低限の自信の担保としての地固め

前回の

という記事でも書いたんだけど、元々私はヌルい気持ちで絵を描いてた底辺裾野絵師の一人だったけど、とある絵師さんの作品と出会って考えを改めた経緯がある。
勿論スパッとすぐに割り切れたわけではなく、なぜこんなにすごい、一目でこの人とわかる個性的でハイレベルな絵師がアマチュアにいるのか?なぜ自分の絵は貧相なのか?と悩んだりもしたこともある。
まるで大理石の硬い壁に爪を立てて登ろうと足掻いてるかのような徒労感を覚えたこともある。

けど、結局そういう雑念を忘れて夢中で描いて描き上げることを繰り返してたら、それが後から考えると足元を一歩一歩繰り返し踏み固める地固めになっていた。ような気がする。

そういう地固めは例え低コンディション時でも「なんとか描ける水準の最低限の担保」というか下支えになると思う。
雑念も忘れて夢中になって描いた絵というのは確実に本人の血肉になっていると感じるからだ。

本当に「私の居場所がなくなった」のか?

自分の絵に自信がなくなった時、「こんなすごい人がいたら自分なんて存在しなくてもいいんじゃん…」と思ってしまうことはままある。
けど、「存在したっていいんである」。

絵の世界は椅子取りゲームじゃない。
席がひとつしかないわけではない。
同ジャンルにいいな、と思う作家さんが増えることは読者的には嬉しいことではないだろうか。
さすがにコミケ参戦できるサークルは数は限られてはいるけど、発表の場がオンラインにも広がった現在、コミケのみが唯一の発表の場ではない。

なので、居場所を取られた、という考えは視野狭窄に陥っててメンタルヘルス的に望ましくない状態だと思う。

「その絵は私が描きたかったのに」という呪い

私は絵を描く活動をすると必ずと言っていいほど私の絵を勝手にベンチマークされて技法とかは盗み見されるのに感想や反応は一切もらえず稀にリアルストーキングに遭うという割と変な経歴の持ち主である。
見るに値しない絵ならベンチマークも技法の盗み見もされないと思うのだけど、盗み見はされても頑なに感想だけは言われないし反応もない。
私の方から媚びることもないので新参者のくせに生意気、と取られるのかもしれない。

にも描いたけど、ベンチマークしてきて盗み見しながらエンガチョして最終的には村八分にしてくるような、サル山のボス猿またはママ友グループのボスみたいな人が大体感じの悪いマウント顔ドヤ顔を描いてるにも関わらずそれをカッコよく描けてると思い込んでることが多い。

そしてボスざ…いや、ママ友のボ…じゃない、界隈を仕切ってるっぽいイキリリーダー気取りみたいな盗み見ストーカーに限って

「なんであんたがその絵を描いてるのよオォオオオォォオオそんな絵は私が描きたかったのにイィィィイイイィィイキイィィィィイイーーーー!!!」

みたいな「呪いの表情をカッコいい表情と勘違いして」(というか本来描きたかった表情を押しのけて本人の個人的感情がキャラの表情にダダ漏れて)描くことが非常に多かった。
(なぜ描き手の個人的感情がキャラの表情に乗るかの機序も上の記事に書いてあるので興味がある方はどうぞ)

だけど、そういう感情をぶつけられる度に思う。

「あなたがあなたの脳内イメージをその通りに具現化できないのは私の責任ですか?」

そして何より

「それ、『本当にあなたが描きたかったモノ』ですか?」

と問いたい。

ボス猿に私が言いたいこと

「それ、『本当にあなたが描きたかったモノ』ですか?」
「例えあなたが私の描いたような傾向の絵を描きたかったのだとしても、あなたの脳内イメージと私の脳内イメージは全く同じではないはずではありませんか?」
「例えあなたが私の描いたような傾向の絵を描きたい願望や脳内イメージが潜在的にあったのだとしても、それを現実に具現化したのは私であって、あなたは私の絵を見て焦っただけでしょう?」
「焦るくらいなら先にあなたの脳内イメージを具現化できるだけの基礎画力を身につけておくべきだったのでは?」
「あなたは私に先手を取られたと勘違いしてますが、それぞれの脳内イメージの具現化に後も先もないのではないでしょうか?」
「本当にあなたの脳内にも私が先に描いた絵に類似した脳内イメージがあったとしても、それを具現化するのが今なのはなぜですか?必ず『私の先にではなく後』なのはなぜですか?」
「他人に触発された直後じゃないと描けないのは、『本当はあなたに描きたいモノ(脳内イメージ)はなく、あるのは描くことで賞賛を得たい承認欲求だけ』じゃないんですか?」

「それ、『本当に心底あなたが描きたかったモノ』ですか?」

脳内ブラックボックス内のイメージこそがその人の個性そのもの

上にも書いたけど、

「例え他人が私の描いたような傾向の絵を潜在的に描きたかったのだとしても、他人の脳内イメージと私の脳内イメージは全く同じではない」

わけです。
違うモノを食べ、違うモノを学び、違うモノを好きになり、違うツボを持つ私と他人が、同じ脳内イメージを持つはずがない。
であれば、自分しか持たず他人と同じものを共有できない各自の脳内イメージに忠実に描くことこそが「個性」なのでは?
と最近私は思うのだ。

また、その脳内イメージの具現化に必要な技術も、本人がどこまで突き詰めたいかによってそれぞれ違うことになる。

「自分だけの個性が欲しい」
「他人と違う自分を見てほしい」
のであれば
「他人の絵を燃料扱いし、他人に触発されて描く」
ことは本末転倒になるのではないか。

それより
「自分の脳内イメージに『必要十分な』基礎画力の習得を怠らず、具現化の際にも脳内イメージのみに忠実に従って描く」
ことが

「自分だけの個性」
「他人と違う自分」

なのではないだろうか。

自分より上手い絵師を目にすると「自分を否定された」ように感じるのは、正しくは「自分だけの個性の脳内イメージ」「他人と違う自分だけの脳内イメージ」の存在に気づいてないか、他人の芝生が青く見えてそちらに流されてしまい、「自分の本当に描きたかった脳内イメージを無視」してるからなのではないか、と思えるのだが、いかがだろうか。

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