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絵柄が古い、新しいは何で決まるか〜絵柄とは何なのか考えてみる

以下の文章は全て敬称略です。

先日絵柄の古さと流行りの絵柄についてのnoteをお見かけしたのです。

その内容の是非についてはまあ置いといて、それで少し考えたことがあるので書いてみる。
あくまで私個人の認識による論考であり、客観的に正しいとは限らないのでご留意ください。


漫画の絵柄のザックリ分類


で、私の認識する日本の漫画などの絵柄の歴史ってザックリこんな感じ。

    ウォルト・ディズニー
        ↓
     手 塚 治 虫
   ↙︎    ↓   ↘︎    (少女漫画派生)
 劇画調 丸っこい絵 少女漫画→BL
  ↓    ↓    ↓    ↓
  アニメ・ゲーム・同人誌などで混在

上図は手塚治虫が劇画調を発明したという意味ではなく、ウォルト・ディズニー直系の手塚治虫の絵へのアンチテーゼとしての劇画調の派生の意味で書いている。
また、BL絵柄を少女漫画派生と断ずることに異議がある方もおられるかもしれない。
しかし私の認識としてはBLに存在する絵柄は

1.純粋少女漫画系譜の絵柄のBL
2.絡みシーンの追求からの1.+人体デッサン重視派
3.二次創作の元となる原作が少年or青年漫画であることによる原作重視絵柄

にザックリ分かれると考えている。
ただ現在いわゆる典型的に絵柄見て「BLだな」と感じる絵は上記の2.である。
1.は由緒正しく少女漫画から漫画BL作品が生まれたので当然とも言える。
2.は人体は逞しく描いたりするが、少女漫画からの派生だと感じる。
表現としての絵の文法(妙な表現だが)が少女漫画だと思うので。
3.は内容はともかく絵柄的にはBLというより原作派、と判断したものである。
正確にいうと2.寄りの3.というのもものすごく多いが2.の絵の文法(繰り返すが妙な表現ではあるが説明のしやすさ重視で以降もこのように表現する)は少女漫画的と判断し2.に入れておく。
原作が少年・青年漫画の二次創作に「BL要素が入る≒2.の少女漫画絵の文法が入る」ことが多いためである。

そういう個々の分類の細部は置いといて、ザックリ絵柄の文法を流派分けすると上図になるのではという話である。
とは言え近年はBL同人作家が青年誌でデビューしたり以前にも増して混交が進んでいるので安易に分類することはできない。

比較対象は妥当なのか


そして冒頭で触れた絵柄の古さと流行りの絵柄についてのnoteでは、「流行の絵柄の特徴は顔の短さ」と指摘していた。
ある種それは頷けるところではある。

ただここで私が感じたことのひとつはこのnoteの主の比較対象が上図のザックリ分類で言えば「丸っこい絵」と「少女漫画」を比較しているのではないか、ということである。
このnoteの主は生まれも育ちも少女漫画畑であるようである。
だとすると比較対象が少女漫画以外の丸っこい絵なのは妥当なのだろうか?

少女漫画には少女漫画独特の表現形態があるので、分類跨ぎでの比較が成立するのかどうか少々疑問に思ったのである。

現状の絵師の環境を振り返る

お絵描きは特殊スキル

一方、絵柄を決定付ける要素は前項のような「ジャンル」、別な言い方をすると「嗜好性」だけに依らないと私は考えている。

というのは、絵を描くというのはある種特殊技能であり、描けない→描けるの間に横たわる溝の深さが非常に大きいからである。

多分大半の絵師の方に同意してもらえると思うのだが、いつも100%、理想通りに絵が描けるという人はごくごく少ないのではないか。
勿論ご多分に漏れず私もいつも理想通りに描くことは難しい。

まとめるとお絵描きは特殊スキルであるが故にいつも作品が絵師の理想通りの出来とは限らない。
つまり多くの絵師の作品自体が(あくまで本来の理想に比すれば)未熟な出来である可能性は高いとも言える。
だがしかしそれは次項以降の事情により必ずしも弱点と言い切れない可能性もある。

漫画界は青田買い

そしてもうひとつ指摘したいのが、漫画界は昔から基本青田買いの世界であることだ。
青田買いということは編集としては若い、誤解を恐れずに言うと幼さを含めた感性を求めている。
そしてデビューする年齢層はやはりティーンが主なのではないか。
ここに「若い漫画家デビューかつヒット→専属なら特に長期間の高収益を見込めるためにここに狙いを定める」という大人の事情が垣間見える気がするのは私だけだろうか。

稀に例外もあるが。


↑のnoteで初めて知ったがすごい人もいるものである。
独特の雰囲気でガロとかつげ義春っぽい。
(とはいえ世代ではないのでガロを見たことはない。あくまでイメージ)

話を戻して青田買いの話である。

青田買いということは基本的に漫画家デビューは若いほどもてはやされる傾向にあるように見える。
統計を取ったわけではないが商業誌デビューはティーンというイメージが強い。
商業誌デビューに限らず同人誌デビューであればなおのことである。

親にも応援される現代の絵師たち

昔は漫画とは子供の読むものとして軽んじられ、特にPTAから目の敵にされ弾圧された歴史もあると聞く。
あの手塚治虫の作品すら焚書の憂き目にあったというが…。
そんな時代だと、漫画家になると言えば周囲からの反対は当然だったのではないか。

しかし現代は漫画で育って当たり前の世代である。
同人誌を作ることも、アニメやデザインの専門学校や美大進学も、反対されるどころか両親に応援されるとも聞く。
なので現時点ではかなりの参入障壁の低さを感じる。
参入障壁が低いということは青田買いも相まってかなりの低年齢層から絵師として参入することが可能ということである。

お絵描きとは思想・心情の表現

これは説明も何もいらないだろう。
お絵描きとは表現活動であり、思想・心情の表現の一形態である。

以上を踏まえて次の項を書くことにする。

特殊スキル+青田買い+参入障壁の低さ+思想・心情+日本人気質=「?」


↑の解とはなんだろうか。
要は前述した各種条件に日本人の気質をプラスするとどんな作用が現れるのか、ということである。

まず特殊スキルを要する漫画家の卵の青田買いを周囲の大人(親も編集もオタも世間も)が当たり前に行なっているということである。
そして未完成かつ可能性の塊の夢見る若い才能が常に漫画業界、同人業界に流入し続け裾野を広げているということになる。

青田買いの若い才能たちがお絵描きという特殊スキルを身につけるにあたって真っ先に参考にするのは美大進学志望者を除けばまずファインアートではない。
参考にするなら推しの漫画家や絵師であろう。
となると既に好みの絵柄の流派である程度テンプレ・記号化済の「お約束で構成された絵柄」を参考にすることになるだろう。
参入の年齢層が低ければ低いほど記号化されたお約束で描くことが一番効率よく、記号化済の絵柄を習得する早道になる。

これらにさらに思想・心情という要素が加わる。

絵師を目指すからには例え幼なくとも表現したい何か(例えば「推しが尊い」は強い動機のひとつである)があるからこそであろう。
強い動機付けによってお絵描きという特殊スキルを身につけるのだと思う。

つまり、これが思想・心情の表現である。

思想・心情の表現ということは、自己の中から生まれるものなので、逆に言えば自己の中にないものはかなりの修練や才能がないと描けない。

これは、描き手が幼い場合、「大人が大人らしく描けない」ことに結果的に通じる。
幼い描き手が大人らしい大人を描けるようになるには、おそらく二通りの道がある。
ひとつは天賦の才がありリアルデッサンなどから漫画絵に落とし込める才能の持ち主であること。
もうひとつは天賦の才がない人はそれなりの経験を積んで(年齢を重ねて)大人の気持ちがわかるようになることである。

再三書いているが絵とは思想・心情の表現である。
中でもエンタメ特化の漫画のキャラクターイラストはキャラクターの表情、心情表現も非常に重要である。
況してや日本のそれは世界でも多くのファンを獲得しており、独自の進化と深化を遂げたとも言える。

ただ現在は他国の絵師の躍進も素晴らしく、日本は停滞気味という声もなくはない。
私も他国の絵師は基礎デッサン力がしっかりしている達人が目につくように思う。
とは言えそこはその国の絵師の置かれた環境が、日本のそれとは違うことも原因にあるのではないか。
日常的に記号化済テンプレ絵の洪水に晒されてる日本と、絵師やテンプレ絵が洪水というほどではないであろう他国では、絵師を目指した場合に取り得る手段が違うのだろうと思う。
前者はテンプレ絵のお手本が掃いて捨てるほどあり、後者はある程度お手本が限られるのではないか。
なので後者はファインアートの基礎たるデッサンから始める絵師も多いのではないか。
少ない知見ではあるが私は現在そのように推測している。

他国の絵師の話は完全に蛇足であった。
本題に戻る。

以上を総括するとそれが編集の本意かどうかはともかくとして、結果論としては「日本の漫画界は全体的に描き手の感性が幼いことが珍重されている形に収まっている」。
のではないかと思う。

あくまで結果論である。
結果論ではあるが

「特殊スキル+青田買い+参入障壁の低さ+ (幼い絵師の)思想・心情」≒「未成熟な可能性を見越した未完成な絵柄の全肯定」

となるのではないかと私は考える。

これらを踏まえた上で私は先のnoteの主の
「流行の絵柄の特徴は顔の短さ」
という指摘にはある程度は同意をする。
ただし先のnoteの主と少々異なる見解もあってそれが今まで延々説明してきた
「嗜好性だけに依らぬ幼い(顔の短い)絵柄の乱立する理由」
である。
顔の短い絵柄は流行ももちろんあるだろうが、同時に「幼い絵師志望者の大量流入による幼い感性の思想・心情表現に由来する絵柄の低年齢化」とそれを良しとする「漫画出版界の大人の事情」もあると私は考えている。

そしてここに最後のピース、「日本人気質」が加わるとどうなるかと言うと…。
善良で空気を読み周囲に合わせようと努力するために流行りの絵柄を研究する先のnoteの主のように、素直に「顔が短い絵柄が流行りなのね」と周囲に合わせることを当然とし、さらにその流行を加速させるのではないかと思う。

そのように複数の要因が重なり捻り合わされることで現状の「顔の短い絵柄の流行」が保たれていると思うのだ。

真に絵柄の流行を左右するもの

先のnoteの主は顔が長い男性の絵柄が流行りではないと考えているようだ。
しかし私は単に顔の長さだけが流行り廃りの原因というわけではないと思う。
なぜなら青年漫画の絵柄で顔の長い男性の絵には古いと思わない絵もあるからだ。
勿論青年漫画の絵柄にも古い絵柄はある。
青年漫画の中には古くない長い顔の男性の絵柄もあると言うことである。
つまり、すべての長い顔の男性の絵柄が古いと断ずることはできないという話である。

先のnoteの主の場合に限って言えば、ご自身が育った時代の少女漫画の「大人の男性を表す記号、テンプレ」に乗っかって描いていることが絵柄の古さを感じさせる原因ではないかと思う。
繰り返すが記号、テンプレが古いのだ。
言い換えると記号、テンプレ頼りのみで描くと流行り廃りの栄枯盛衰の波に飲まれてしまうのではないかと思う。

青年漫画の絵柄は少なくとも19*0年代の少女漫画テンプレの男性の絵と違う法則で描かれている。
冒頭に載せた絵柄の流派のザックリ分布図で言えば「劇画調」に属するのが青年漫画の絵柄だと思う。

おそらく先のnoteの主の言うところの「19*0年代の少女漫画」的に顎ガッチリの長い顔で比較的近年まで生き残っている絵柄の典型例というと、「ガラスの仮面」の速水真澄ではなかろうか。
(とはいえそれでも10年以上連載がストップしたままだが)
うん、あれは確かに昭和の香りの少女漫画のテンプレ男性である。
あそこまで行くと昭和レトロと珍重されてもおかしくないかもしれない。
(でも速水真澄がスマホユーザーという驚きの展開もあったけど)

しかしガラカメだけじゃなく「王家の紋章」も歴史ある長期連載中の少女漫画である。
その上今年も最新刊が出るそうなのでここに含めても良さそうな気もしないでもない…?
がメンフィスにしろイズミル王子にしろ、細い顎の細面なので、「先のnoteの主の言うところの」19*0年代の少女漫画の男性キャラの定義からちょい外れるように思う。
「先のnoteの主の想定した19*0年代の少女漫画」の典型と言えば、やはり速水真澄ではないかと。

こう断ずるのはあくまで今回は冒頭のnoteの主の論に対する私の論考であるからだ。
なので冒頭のnoteの主が仮定した絵柄の古さとは別系統の絵柄の王家の紋章については、「今回は論じない」という話である。

かなり脱線したが話を戻す。

結局のところ、古いとか新しいというのは絵柄を構成する「テンプレ」の話であって、そりゃテンプレに流行り廃りはある。
ファッションも同じである。
ファッションの流行も「今年はこの服のデザイン(テンプレ)が流行るよ」と言ってるわけで、流行り廃りとはつまりテンプレなのである。

では流行り廃りと無縁でいられるのは何かというとファッションならオーソドックススタイルである。
では絵柄でオーソドックススタイルとは何かというと、やはり基礎デッサン力だろう。

比較的低年齢層でも参入しやすい記号化されたテンプレ絵柄は、記号化済であるが故にそのテンプレが流行から外れると違うテンプレに乗り換えるのに時間がかかる。
しかし基礎デッサン力があると絵柄の変更は割と自在にできる。
基礎があるから応用も楽なのである。

青年漫画でも記号化済の絵柄は流行り廃りに揉まれることになるが、基礎デッサン力に裏打ちされたリアルな絵柄は流行り廃り関係なくリアルである。

ただしリアルな絵柄自体がごくごく初心者や低年齢層の絵師には「古い」と感じられる向きもある。
リアル系絵柄は記号系テンプレ絵柄よりはるかに多くの情報量を含んでいるためだろう。
なので初心者や低年齢層の情報処理能力ではキャパオーバーになりやすい。
キャパオーバーせずにそれだけ大量の情報を処理できる経験の多さとそうなるまでの来歴の長さを想像してしまうので「古い」と若年層には感じられるのではないかと推察する。

またリアル系絵柄の中にも確かにテンプレ絵柄ほどのダイナミックレンジではないにしても流行はある。
しかし基礎デッサンができていればちょっとした処理の変更で垢抜けさせることは比較的容易であると感じる。

結局のところ、流行りの新しい絵柄を目指すことが正しいのかどうかはその絵師がどういうスタンスで描きたいのかにかかってくると思う。
最先端にいたらトンガリすぎて大衆は着いてこない、真っ只中にいたら大衆に埋もれる、遅れたらダサい、というのが流行というものである。
その流れの中で本当に流行を追いたいのか、
流行を追うことで個性を殺してしまわないか、
流行作家になりさえすれば後に廃れて黒歴史になっても構わないのか。
そういう意味では流行のみを追うのも諸刃の剣とも言える。

絵を描くことによって何を実現したいのか?
という自分の中の「表面的ではない真の望み・動機」を自覚しないと、ただ流されるに任せて自己を見失う可能性もなきにしもあらず、である。

ちなみに流行とはまた別の視点でだが、絵を描く上で「みんなやってる」を根拠にすると落とし穴があるという話は既に過去noteで書いている。

というわけで人間の動機には「偽の動機」と「真の動機」とふたつ存在する、ということを指摘してこの論を納めることにする。

それではこのnoteを読む数少ない絵師諸氏の健闘を祈る。(エラそう)


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