絵師のダメ脳内補正の克服という奇跡の瞬間〜すごく心に刺さる絵師のnote3

素晴らしいnoteを発見したのです。

これ、ダメ脳内補正の克服の瞬間を捉えたリアルで克明なレポートです。
すごいです。
さすがにプロになる方は違う…。

ダメ脳内補正についてはこちら

↑の原典
絵を巡る考察プレビュー版

ダメ脳内補正も含む関連noteはこのマガジンに全部書いてます


この先生のおっしゃるところの『無意識の声』が圧してるものこそが、私が「絵師の陥穽」シリーズで書いている「自分の本音」「自分に嘘つかない」「現実を見る」です。
私が書いた代表的な当該箇所は以下。

3Dでモノを観察できない≒自分の本音がわからない
自分の本音に蓋をしない=モノを3Dで捉える目を育てる
自分に嘘ついてたらいい絵なんて描けない

盗んだ雑魚モブ絵師のデメリット
・(本人自覚はないが)絵が上達しないままルサンチマンで変なプライドだけ高くなっていくので自分が下手なことに気がつく機会がなくなる(真の上達から遠ざかる)
・認知が歪むので以降の人生(お絵描き以外でも)全部歪んでしまう(その後の自分の人生が幸せから遠ざかる)

そもそも現実をきちんと見ないから観察力ない=3Dを感知できない=ヘタクソ、になる

私は人間ができてないので↑このように鋭い刃物みたいな乱暴な語彙でしか表現できない。
しかしこちらの先生は、恐らく同様の内容を温かく優しい人間哲学に基づき、ここまで詳細にわかりやすく克明に表現されている。
嬉しい驚きです。
奇跡のようです。
こういうのはこの先生の人品の良さに由来するもので、私のような狭量で人のアラを見つけるのが大得意な分析魔には逆立ちしてもできない表現です。
(これ自体は私の個性としか言いようがないので、気をつけるようにはしてるけど自分を殺すこともしたくはないと思ってる)

ちょっと長いけど引用する。

僕は、絵を描く事の真の目的は、まさにそれだと思っています。日常の生活の、他人がいたり、社会という場があったりする中で、自分の感情が自分の現実認識を歪めてしまうのを自覚して、認めて、直すというのは圧倒的に難しくて、なかなかできないと思います。
そんな中で、絵を描くという行為は、自分と絵しか存在しない世界で、ただ自分の心の動きを観察できる、ものすごくノイズの少ない学びの場です。絵の中で、自分との対話の繰り返しの中で、自分の考え方の歪みを直していけるなら、それは必ず自分を多少なりとも昨日よりマシな人間にしてくれるはずです。僕はそう確信しているので、ずっと飽きずに、熱意を失わずに絵を描き続けられています。そして、まあ少なくとも予備校時代に伸び悩んでウンウン言っていた頃よりは少しはマシになったと思っています。先はまだ長いですが。
そんなわけで、絵を描く上で一番大切な気づきは、自分の無意識は自分が傷つかないように現実を歪めて見せようとしている。という事です。
そんなの当たり前だよ、最初から知ってたよ、という人も多いかと思うのですが、僕のように、大変な思いをしないと気づけない人もいると思うので、話してみました。誰かのお役に立てば幸いです。

note版 突然画力が伸びだした時、僕が発見した事

いやあ、素晴らしい。美しい。
真実であり、温かい。
私の今書いてるnoteのタイトルはシリーズだから「刺さる」だけど、今回は正確に言えば「沁みる」だわ。

自分の無意識は自分が傷つかないように現実を歪めて見せようとしている。という事です。

note版 突然画力が伸びだした時、僕が発見した事

↑ここ!ほんと素晴らしい。
真理です。

そんなの当たり前だよ、最初から知ってたよ、という人も多いかと思うのですが、

note版 突然画力が伸びだした時、僕が発見した事

この先生優しくて謙虚だからこうおっしゃってますが、現実には2Dしか理解できない底辺絵師がほとんどなんで、大半は理解してないです。マジで。
これわかってる人が多かったら2Dしかわかんなくて3D脳内イメージの持ち主に嫉妬するような先っちょ切り取りヤカラ絵師なんてこの世から1人もいなくなります。
私自身も他人の絵が気にならなくなったのは脳内ブラックボックス3Dイメージの存在を確信してからだしね。

脱線するけどこれは絵に限らなくて、文章も同じ。

文章書きの相方の文章力を鍛えたのは、実は私だったりする。
私は文章を、例えると分子レベルまで分解してその分子それぞれの役割を把握した上で推敲、再構成をするというちょっと変わった訓練を受けて育ってきたので、文章のアラにすぐ気がつくのだ。
その上、自分の鬱を結果的に寛解させた「過不足なく自分の気持ちを誤魔化さず厳密に精査した文章」を長いこと模索しながら書き続けたことがあるので、文章表現の正確さに人一倍敏感になったのだった。

で、相方も最初はせっかく苦労して書いた文章を私にケチつけられたからって直すのは嫌がってたし、直したとしても的外れで盛大な脱線をしたりと大変そうだった。

それで私はいちいち語彙の選択や、語順の変更、不要な言葉の刈り込みの具体例を示したり、「ここはこう言いたかったのではないのか、流れはこうしたかったのではないか」などを指摘をすることによって、本来相方が伝えたかったことが如何にスッキリ伝わるようになるのかを実践してみせた。
すると、その効果を相方も実感したらしく、推敲を自分で行うようになった。
とは言えすぐに自由自在、というわけにはいかなかったけど。
でもしばらくは私が口を出していた相方の文章も、今では私が口を出すことは全くない。
相方が自分で自分の文章を点検、推敲してスッキリ書けるようになったからである。

結局他人に伝わる文章ってのも絵と同じで、「これは自分の書いた文章だから素晴らしいはず」という色眼鏡を外す必要がある。
それまでかけた時間や労力を勿体ないと感じて路線変更できない「コンコルド効果」もあるだろう。
だけど文章も時間を置いて赤の他人のような目で冷静に見直し、齟齬やら突っかかる箇所を見つけて直す、という作業をしないと整わないのだ。
慣れてきたら書き直しは随分減るけど、それでも脱線したら頭から書き直し、というのはあり得るし、私もこのnoteに上げる文章でもかなり推敲、手直し、書き直しをしている(これだけの分量書いてるけどどれも一発書きはないしかなり読み込んで何度も手を入れてる)

さらに追記すると、人に伝えたいことを(自分で出来得る限り)正確に書き表そうとするならできれば多彩な語彙の習得をする方が望ましい。
義務教育でこれができていれば一番効率がいいが、読書嫌いも多そうなので難しい。
読書嫌いな人の何がウィークポイントかって、日常の喋り言葉で意味通じるじゃん、と喋り言葉の範囲内の乏しい語彙のみで文章書く人が案外多いことである。
人に響く文章には「ぴったりの言葉」「適切な言葉」のチョイスや濃度、リズム感など、いろんな要素が絡む。
人に響く文章は意味だけ通ればいいという質のモノではないと思うのだ。
他人に何一つ届かなくても響かなくてもいいなら、推敲しない書きっぱなしの意味だけ通じる(時に国語力低くて通じない)文とも言えない日常喋り言葉文章でいいと思うけど。
でもnote始めテキストメディア始める人で「他人に一つも響かなくてもいいもん」て人がどれだけいるのか…。
むしろそれだけ振り切れてたら逆に立派だと思うよ。

これが絵になると語彙ではなく物理的にモノ(オブジェクト)の視覚情報(カタチや立体感やら陰影やら)の引き出し、ストックを身につけておいた方が「描きたいイメージにぴったり、しっくり来る描線や表現」を導き出せるようになる。
しかしそれらを習得できる可能性を「これは自分の描いた絵だから素晴らしいはず」という色眼鏡=ダメ脳内補正がぶち壊すわけである。

…かなり脱線してしまった。

しかし、この先生の素晴らしいnote、さすがに(私がこのnoteを書いてる)現時点で「スキ」が7,000超えなので、7,000人以上の絵師のダメ脳内補正が破壊されたのではないだろうか…。何という善行…。
(七)千手観音かな?
こんな温かい優しい言葉でそれができる、そんなところも素晴らしい。
臨場感溢れるダメ脳内補正の克服の瞬間を捉えたリアルで克明で温かい人間哲学に裏打ちされた素晴らしいnoteのご紹介でした。

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