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生徒ファーストか、芸術ファーストか。

みなさまお久しぶりです。
日本に帰国して一年が経ちました。
東京ではプロ育成クラスを始めて、ありがたいことに全国からバレエを頑張っている子達が集まってくれました。
新幹線を使ってきてくれる子や、泊まりで来てくれる子もいるので、毎週の1時間半のレッスンや個人レッスンが質の良いものになるようにしなければと、いつも思います。

noteをまた始めたのは、やはりレッスンでは、注意点や踊りそのものを直していくことだけでいっぱいいっぱいで、プロ育成クラスのメンバー達には芸術やバレエとはなんぞやみたいな事を話したり、伝えたりする時間はありません。(みんなの前でお坊さんの説教みたく、長々と話するのもなんだかな…とも思いますし)
なので、noteでそういった部分を書いていくことにしました。
そして、私の記事から海外の人達の芸術に対する意識がどんな風なのかが垣間見えたら、今後何かの役にたつのではないかと思うのです。(絶対読んで!とは思わないですが、インスタの投稿見て、気づいたら読んでみて欲しい笑)

さて、第1回目は「ロシアのバレエ学校は生徒ファーストではない。」という事と「芸術の存在意義」についてです。

先日、何気なくワガノワバレエ学校の10歳くらいの年代の子達の試験を観ていました。
全員で15人ほど、クラシックバレエの試験でバーレッスンを披露していました。

ふと航矢が、「すごいなー、ここから半分は落とされるもんな。確かに真ん中のバーについてる子達以外はそれほど…ではあるけど、それでもみんな強いし、綺麗なのになぁ。厳しいな…。」と呟きました。
そこで私が、「でも、それはやっぱり生徒達のためにってことなんじゃないのかな?早いうちにバレエではなく他の道に行きなさいと退学にさせるのは、優しさなのでは?」と答えました。
そうしたら、航矢はこう答えました。
「このシステムは生徒達のためではないと思うんだよね。芸術を守るためなんだと思うよ。ここから落とされる子達だって、努力してなんとかやっていって、運が良ければプロのダンサーになれる子達もいるわけじゃない?俺ら自身がよくわかってるけど、もしワガノワの入学試験受けてたら、俺らは絶対受かってないわけじゃん、でも続けていれば、バレエ学校に編入できて、バレエダンサーにもなれる時がある。でも、そういう道すら切り捨てて、「はい、あなたバレエ辞めてください。」っていうのは、やっぱり芸術を守るため、生徒ファーストではなく、芸術ファーストなんだと思うよ。」と言いました。

私はその話を受けて、ふと思い出しました。
私がボリショイバレエアカデミーの6年生に編入した時、その年の試験で同級生の1人が退学を宣告されました。
その子は決して下手なわけではなく、いっきに半分近く落とされる5年生の試験では受かっていました。
その子が落ち込んでいた事はもちろんですが、担任の先生がとても悔しそうで、涙を見せながらその子にハグをしていたのが印象に残っています。
先生達だって、基準に満たないならさっさと辞めなさい、というような姿勢ではなく、できることならこれからもバレエを続けていってもらいたい、というような気持ちだったのだろうなと思います。
その時の事を思い出しながら、私もこれは生徒のためではなく、芸術のためなんだろうなぁと思いました。

芸術の在り方はいろいろあって、例えば教会などに行き、音楽を聴いたり、もしくは自分自身も歌う、という在り方。バレエもその楽しみ方ができますが、これは自分自身が満足を得るためが目的です。ただ、バレエはその楽しみ方だけではなく、もう一つ重要な役割があります。
それは「劇場の保存と発展」です。オペラやバレエは劇場のために存在するため、バレエダンサー達も劇場のために尽くすことが目的とされる。
その場合は上記に書いたダンサー達の選別が必須となります。
なぜなら、芸術に対しては、芸術家が少なければ少ないほど良いものに仕上がるからです。
なぜ少ない方が良いのか、それは芸術的存在というのは「人類の美に対する進歩」だからです。
だから、バレエの関係者は美を進歩させるような逸材を常に望んでいます。
今の世界のスター達の第二と呼ばれるような子、もしくはその人達を超える存在が現れることを有識者は待ち望んでいるんですね。だから、そういった逸材がいれば、その人達に時間をかけ、労力と資金を注ぎたい、芸術を守っていくために。
というスタンスなわけです。

多くの方は、芸術は観る人を増やさなくては廃れてしまう、と思っていますが、それはあくまでも「商業的な視点」であります。
何よりも「美の進歩」を守れているかどうか、これを常に問わなけば、芸術はいつか廃れていってしまうのです。

「人類の美に対する進歩」を分かりやすく説明すると、例えば展覧会に一つの絵が出されたとします。
絵を描く人も見る人も感性だけに頼ることなく、知性が必要です。自分が創造するものがいかに自然に近づけるか、人類の歴史とこれまでの美に対する認識についての疑問、それらを踏まえて見えてくる自分自身の答えと創造力、を画家はキャンパスに描きます。そして、その絵を美学者や評論家が汲み取り、討論して「これは新しい美の概念である芸術だ!」と結論づけると、その絵はそれまで0円だったのに、突如何十億の値段がつきます。
美の進歩は科学の進歩と同じなのです。
何十億、何百億円というのは、「人類の美に対する意識と創造が更新された瞬間」であり、それらの価値は値段ではつけられない程のものだということなのです。
よく有名な画家が無名のまま貧乏のうちに死んでから、その後評価されるのは、ようやく時代がその画家達の美に対する認識に追いついたからですね。

こうして芸術は「人々の美に対する認識」と共に進歩していき、発展していくものなのだろうと思います。
そこに環境、時代など、この大地で起こるすべての物事を反映して、創造されていくのです。
世界が平和で景気の良い時代であれば、その思想から創造されるものを。争いと貧困の時代であれば、その時代特有のものが。
すべてはインスピレーション、昔の人々の言葉を借りれば霊感によって。

こういった芸術の物差しが理不尽で不平等であると感じられるか、厳しいけれど魅力があるなぁと感じるかは人それぞれですが、私はこういったシビアな性質をもつ芸術の世界が好きで、そういった世界に自分も身を置いてやっていくことが楽しかったですね。

みなさんはどうでしょうか?
一生懸命日々バレエを練習している子達は薄々「なんだか大変そうな世界に足突っ込んじゃったかな〜?」なんて、感じているのではないでしょうか😂

以上、久しぶりに芸術のお話をすることができました。
時々更新できたらなぁと思います。




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