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額田の紫野は茜さしてこそ

子供の頃画用紙におひさまの絵を描く時、当たり前のように赤いクレヨンを使わなかっただろうか。


茜草という植物がある。表紙はその茜草の写真だ。薬草として、また染料として利用するのだが、その時に出る色はとても明るい赤だと言う。

『あかねさす』
和歌の世界において枕詞として有名なこのあかねは、茜草の色彩から太陽をイメージして昼間、日、照るの枕詞として使われる。子供の頃に描いた光るおひさまの色だ。
とても美しい表現だと思う。

ただ『あかねさす』と聞けばまず思い出すのは、額田王の有名なこちらの和歌ではないだろうか。

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

枕詞の資料を見ると、この歌で詠まれているように紫にかかる枕詞であるともされる。また『君』も同様に当てはまる。
ところが万葉の和歌の中で、あかねさすに紫、君を使っている歌はそれぞれ一首ずつしか存在しないらしい。
そのために文学に精通している方の中には紫と君に関して、あかねさすを枕詞として定めるには無理があると言う人もいるようだ。

この歌が好きなので気になって、気になりだしたらいつものようにのめり込んでしまったわたしがいる(笑)
『君』のことは放っておいて←ともかくも考えてみたい。

枕詞とは辞書によれば特定の語の前に置いて語調を整えたり、ある種の情緒を添える言葉のことだ。また、たやすく連想される言葉でもあるだろう。
ある意味特定の語の呼び出しで、決まり文句のようなものと考えることもでき、主たる語は枕よりも、続く語にあるのではないだろうか。

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

日がさし輝く紫草の野原。その御料地の野を歩いてる時、わたしに向かってそんなに手を振って…… 番人に見つかってしまわないかしら。
ま~そんな意味になる。何しろ額田王は人妻だ。夫は天智。

この紫野とは紫草の群生している御料地のことで、紫草も薬草であり根っこは紫色の染料だ。ところが見えている花はとても小さく色は『白』なのだ。紫ではない。

つまり、この歌が表す情景に紫色は出てこないことになる。
確かに『紫』は色の事とは限らないかも知れないが、紫と聞いて一番先に連想するものは色ではないか?と、思ってしまう。

一方で、この歌には返歌がある。
そもそもこの歌は、蒲生野に遊猟に行った際に詠まれた歌だ。宴の席における大人の遊び歌とされるので、『君』と、ある意味名指しされた当人が返している。後の天武、元夫の大海人だ。

紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも

頭の紫草は『むらさき』と読ませる。そのため仮名文字で表記する時は『むらさきのにほへる』となる。にほへるとは、『美しい』といったところだろうか。

『紫草のように美しいあなた』もしくは『紫草が咲く場所をあるく美しいあなた』
どちらにしても、紫草と額田王のセットを『美』に仕立てた誉め言葉だ。

前に書いたように、紫草の花は白く小さい花がポツポツと咲く感じであまり目立たない。
紫草の野が美しいものであるという以上、どうしても陽の光によってあたり一面が照り映えていて欲しくないか?←

ズバリ陽の光そのものを表す茜。
『あかねさす』は、必須だと思う。
額田本人にしても、元夫への恋の歌として艶が欲しいところだろう。戯れにひそむ女心だ。

この歌にとっては、いわゆる枕詞として語調を整えたりある種の情緒を「添える」程度ではなく、無くてはならない情景の主たる表現なのだと思う。
【枕詞】
決まり文句のように使われる。
主たる言葉を呼び出す。

と言うわけで、万葉集にもこの歌以外には茜さす紫が無い事。また『あかねさす』が、主たる表現になっていること。
この二点から、額田はこの歌において『あかねさす』を、枕詞として使用したわけではないのではないかと思い至った。

但し、ド素人のわたくしめの勝手な解釈ゆえ、簡単に信じないほうがいい😎


そう言えばこの歌は、宴の席の大人の遊びだと書いた。ふたりは油の乗った中年だ。その説が有力なのだが、それも果たして本心はどうだったか……

それこそ、本人に聞かねば何もわからないといったところだろうか。



*この記事の表紙画像クレジットは以下の通りです。
茜草
Wikipedia
ファイル:W akane1091.jpg
CC BA-SA3.0

撮影者 カールおじさん
草花写真館より

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