見出し画像

あたたかい島で聴くための歌


10月の半ば、ひとりで瀬戸内海の島から島に移動し、瀬戸内国際芸術祭の作品を道しるべにひたすら知らない土地に行く日が何日かあった。


朝早くに起きて、港から知らない船に乗り、知らない島に行く。
夏に訪れた時はひたすら日差しと暑さと坂道との戦いだったけれど、秋はかなり日差しが柔らかくなった。
とはいえ10月でも相当暖かいので、薄手の羽織を持って島を歩き回る。


人と殆ど会話をせず静かな場所をテクテクと歩き回っているうちに、いつかの交わした会話、インスタで見た動画、メールの文面、Twitterで見た犬の写真、最近よく聞く音楽、すごく前に聞いたどこかの駅の発車メロディーみたいなものが、頭の中で全部ゆっくりかき混ぜられていく。



岡山駅からバスに揺られて、宝伝という小さな港から小さな船に10分だけ乗って、犬島に着いて、鯛茶漬けを食べて歩き始めたあたりから、脳内に途切れ途切れに繰り返し流れる曲に気付き、徐々に意識を向けはじめた。



それは「椰子の実」だった。
名も知らぬ、 遠き島より、 流れ寄る、椰子の実 ひとつ…


意識して聴こうとしたことはおそらく今までなかった。音楽の教科書にはもしかすると載っていたかもしれない。



たぶん一般に知られているのは歌謡曲っぽい、クラシカルな歌い方のそれだけど、記憶の中の「椰子の実」は違う。何度も反芻しながら、アン・サリーのカバーしたやつかもしれないと思い至った。母の聞いていたアルバムに入っていた気がする。「ひとつ」のギターのコードがおしゃれなのだ。

もう一つの記憶の元は、矢野顕子だ。
これも家族の影響で「ピヤノアキコ。」というアルバムを小学6年くらいのときに熱心に聴いていて、その中に収録されていた。
矢野が歌うと完全に彼女流の旋律になるから、くるりの「ばらの花」も、「グッドモーニング」も、Weezerの「Say It Ain't So」も全く違う曲になる。(そしてどれも彼女のカバーで気になって調べて、原曲も大好きになった)
アルバムの中の「椰子の実」は、他の曲と比べて軽やかすぎて、小学生のときはそんなに熱を入れて聴いていなかった気がするけれど。




そんな、知ってはいたけど耳にしてもすっと掠めていくような、引っかかりのなかった曲が、この知らない島に来て急に鮮やかに迫ってきた。然るべき環境のときに聴く音楽というのはあるのだなあと思った。私のふるさとの海を見ながらギターを抱えてみても、きっとこのメロディーは出てこない。


のどかで晴れの多い瀬戸内海で何度も脳内再生しているうちに、どんどんメロディーも歌詞もしっくりくるようになり、そうして只ならぬセンスの歌詞まで気になりはじめ、Googleで作詞者を調べた。島崎藤村。
高校の古文の授業を経て、なんとなく言わんとすることが分かるようになっているのもまた新鮮だった。おだやかなメロディーなのにメリハリがあって、所々が鋭い。


だって「流離の憂」って、かっこよすぎない? そしてこの歌詞を歌う矢野顕子のアレンジもグルービーすぎて痺れる。


きっと沖縄で聴いたらもっとしっくり来るんだろうけど、南国の島の解像度が低い北の住民には十分感動体験だった。おかげですっかり秋の瀬戸内めぐりのテーマソングになってしまった。



多くは書くまいと思っていたけれど長文になってしまったので、最後に歌詞をのせて終わりにする。
ふりがなや漢字の加減は、私の脳内でアン・サリーと矢野顕子と、後からApple Musicで見つけたハンバート ハンバートの歌い方がミックスして独断でアレンジしたものなので、原文とは多少異なる。


暖かい気候の島を歩きながら聴きたい一曲だ。
ちなみに、ヘッダー写真は「犬島くらしの植物園」で、放し飼いにされてのんびりしていた鶏です。




椰子の実


名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る椰子の実ひとつ
ふるさとの岸を離れて
汝(な)れはそも波に幾月


もとの木は 生(お)いや繁れる
枝はなお 影をや成せる
われもまた渚を枕
独り身の浮き寝の旅ぞ


実をとりて 胸にあつれば
新たなる流離(りゅうり)の憂(うれい)
海の陽の沈むを見れば 激(たぎ)り落つ異郷(いきょう)の涙


思いやる八重の汐じお
思いやる八重の汐じお
いずれの日にか 邦(くに)に帰らむ