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M011. 【哲学・本】名指しと必然性

 「ミドリムシが動物か植物か考える」中で、読んだ本の内容やそこから学んだことについて書き留めるnoteの【10回目】です。
 今回はだいぶ以前から記事として取り上げたかった本、『名指しと必然性』を中心に、前回前々回でまとめきれなかった言語哲学大全の部分も含め、数冊読みました!

① ソール A. クリプキ・著、八木沢敬 野家啓一・訳『名指しと必然性』(1985年 産業図書)
② 飯田隆・著『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』(1989年 勁草書房)
③ 飯田隆・著『言語哲学大全Ⅲ 意味と様相(下)』(1995年 勁草書房)
④ 黒澤雅惠・著『指示と言語』(2018年 京都大学学術出版会)

 今回読んだ『名指しと必然性』は、ソール A. クリプキによる1970年の講義の記録として、1980年に英文化されたものが、1985年に和訳版として出版されたものです。クリプキといえば、その著書、『ウィトゲンシュタインのパラドックス』を以前読みました

まず一般的なレビュー

 『名指しと必然性』は、翻訳本ならではの読みづらさはありますが、講義録ということもあってか、比較的読みやすい文体であるように感じます。言語哲学の本でありながら、後半は科学哲学的な内容(自然種や理論的同一視、心と脳の問題)も帯びてくるところが面白く、そこがまさに僕の読みたいところでした。
 実はこの本、1年ほど前から数回読んでいるのですが、やはり言語哲学のそれまでの議論の経緯をある程度把握できていないと、理解しながら読み進めるのが難しいと感じました。言語哲学大全を読む前後では、読み取れる内容が段違いです。

 『指示と言語』は、言語哲学史上の固有名の指示にまつわる議論について簡潔にまとめられた本です。以下の記事内では触れませんが、ジョン・サールという人の考えを詳しく取り上げてくれていることが、『名指しと必然性』の読解に役立ちました。

 また以下記事内では引き続き『言語哲学大全Ⅱ・Ⅲ』からの引用箇所が多数あります。特にⅡの序盤で整理されていたア・プリオリ性、必然性、確実性、分析性についての議論が、『名指しと必然性』の読解に重要でした。Ⅲで解説された様相論理についての理解も、大いに役立ちました。

固有名の記述理論(フレーゲ-ラッセル見解)

 『名指しと必然性』における固有名論は、固有名についてのフレーゲやラッセルの見解(つまり『言語哲学大全Ⅰ』で紹介されていたもの)を批判しつつ進行します。まず批判の対象となっているフレーゲ-ラッセル見解ないし記述理論がどんなものだったのかを振り返ります。

 クリプキの議論の中核にあるのは、「モーツァルト」や「ロンドン」といった固有名の意味論をどう与えるべきかという問題である。一見すると、さまざまな意味論的カテゴリーのなかで固有名ほど、その意味論的機能が明確であるものは他に無いようにみえる。素朴な直観は、何らかの対象を指示することが固有名の機能であるとみなし、そこに問題があるとは考えない。「モーツァルト」はモーツァルトを指示する表現であり、「ロンドン」はロンドンを指示する表現である。これ以上に何が要求されると言うのだろうか。だが、フレーゲ以来の言語哲学の議論は、この素朴な直観を保持しようとする者にさまざまな困難が待ち受けていることを示した。とりわけ大きな障害として現れてきたのは、固有名どうしの同一性言明の場合と、固有名を主語とする(否定的)存在言明の場合である。どちらも使い古された例ではあるが、前者は、

(1) ヘスペラス=フォスフォラス

で、後者は、

(2) ヴァルカンは存在しない

で代表させることができる。固有名の意味論的機能が対象の指示に尽きるのであれば、(1)の意味は、

(3) ヘスペラス=ヘスペラス

とまったく同じとなろう。だが、明らかに(1)と(3)は意味を異にする。他方、(2)の問題性は、次のように説明できる。もしも(2)が真であるならば、「ヴァルカン」は、指示する対象をもたないのであるから、意味をもたないことになる。だが、そうすると、(2)は、無意味な語を含むゆえにそれ自体無意味となろう。固有名の機能が対象の指示に尽きるとするならば、一般に、「N」が固有名であるとき、「Nは存在しない」は偽もしくは無意味となり、決して真とはならない。だが、明らかに(2)は、無意味ではなく真である。
 フレーゲが、固有名の意義 Sinn とイミ Bedeutung を区別したのは、前者の種類の困難による。他方、ラッセルが、固有名と通常みなされているものの多くは実際には記述にすぎないと断じたのは、後者の種類の困難からである。このように固有名の場合ですら、満足の行く意味論を構成することは一筋縄ではいかないことが判明する。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅲ 意味と様相(下)』(1995年 勁草書房)

 ヘスペラス(宵の明星)とフォスフォラス(明けの明星)は、これまでの記事(M008M009M010)でも散々引いてきた例文ですね。夕方明るく見えるある星に付いた名前がヘスペラス、明け方明るく見えるある星に付いた名前がフォスフォラスで、実はどちらも金星なのでした。

① ヘスペラス = ヘスペラス

が、何の情報も表現してくれない自明な言語表現に見えるのに対して、

② ヘスペラス = フォスフォラス

は、異なると思ってた二つの対象が実は同一だったことを示す発見の内容を表現する言語表現に見える。固有名というものの機能が、単に実在物の代わりに文に埋め込まれた記号にすぎない(=対象を指示するにすぎない)ならば、こういった例文間の意味の差異は生まれないはずなので、固有名も何か複雑な機能を持っていて然るべき、ということでした。

 「ヴァルカン」の例文の方はこれまで触れてなかったかもしれません。ヴァルカンは、その存在が予想されていた惑星で、調べてみたら存在しないものだった、というエピソードをもつ、今となっては空想上の惑星の名前だそうです。

バルカン(英語:Vulcan)は、19世紀に水星の更に内側軌道を公転しているとされた想定上の惑星である。水星の近日点移動を解決できるものとして、その存在が考えられたが確認されず、現在では存在しないとされる。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「バルカン(仮説上の惑星)」のページ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%B3_(%E4%BB%AE%E8%AA%AC%E4%B8%8A%E3%81%AE%E6%83%91%E6%98%9F))(2021年9月21日閲覧)

固有名の機能が単に対象を指示するだけならば、存在しないものを指示するという事態は意味不明ではないか? 何か複雑な説明を要するのではないか? とのことでした。

 まずいきなり私見を挟ませてもらうと、このように素朴な直観(固有名について、ただ何らかの対象を指示するだけのものと考えること)に問題があるかのように議論が発展したのは、以前から指摘のあるとおり、フレーゲやラッセルの目指す言語理論が、"完全な"言語理論であるからでしょう。これは現実の人々が日常的に用いる言語の在り方というより、いわば神の視点"客観的"視点と言っても良いかもしれない)から眺めた世界の言語理論だと思います。
 例えば、漫画でも小説でもゲームでも良いのですが、何か創作で世界設定を考えるとき、その創作物の作者は、その創作世界にとっての神の視点を持っているでしょう。
 創作世界の設定中で、ある一つの対象に二つの名前A、Bを名付けると、神(作者)が決めたとします。「A=B」と「A=A」は、神の視点から眺めれば、全く同じ事態を表わすし、どちらも自明なことでしょう。自分で決めたことなのですから。しかし、現実のわれわれは現実世界の創造主では無いので、「A=A」が自明である一方で、「A=B」については、自明でない、何らかの探究を経て発見される内容に感じられます。
 この同一性言明についての問題は、「犯人はヤス」で例えると分かりやすいかもしれません。そもそも「犯人はヤス」の元ネタをご存じない方は、以下のリンクなどから把握してください。

犯人がヤスであることは、ポートピア連続殺人事件の作者にとっては、そういう展開にすると決めた時点で自明なことです。「ヤスはヤス」と「犯人はヤス」は、作者から見て、ポートピア連続殺人事件の世界の中で、どちらも全く同じ事態を表す言明です。しかし、この創作世界の中の登場人物、ないしそれになりきってゲームを遊ぶプレイヤーにとっては、「ヤスはヤス」と「犯人はヤス」は全然違う事態を表す言明なのです。「犯人はヤス」は、全く自明でない、ストーリーを進めていく中で明らかになる、重要な発見なのです。(細かいことを言うと、「犯人」は固有名では無いので、フォスフォラス/ヘスペラス例文の完全な代替事例にはなっていません。しかしここで言う「犯人」はつまるところ「ポートピア連続殺人事件の犯人」という確定記述と同義ですから、フレーゲの言う【単称名】のカテゴリーには入ると思われ、それほど見当違いの事例では無いと思います。)

 非存在言明についても考えましょう。創作世界の設定中に存在しないものの名前について、神(作者)の視点からは言及することができます(例えば全く別の漫画、小説、ゲームの登場人物など)。そしてそのことが、その創作世界に何の関係も無いということも、神の視点からはあたりまえに理解することができます。これが、非存在言明が無意味であるという事態です。他方、現実のわれわれは今居るこの世界の創造主ではないですし、世界の外側でものを考えることもできません。ですから、われわれが言及することはすべてこの世界の一部です。「Aは存在しない」と言うことが明らかに無意味でないと思われるのは、確かにこの現実世界を構成する情報の一つと思われるからでしょう。

 以上のように、神の視点から見た世界の言語理論を目指しているがために、現実の言語使用の場面を考えたときに不整合事案が見つかるのではないでしょうか。その不整合に対応するために、あくまで神の視点を保持したまま、諸々の説明を付け加えていくのが、フレーゲやラッセルの固有名論であると思います。
 このような固有名論における重要な論点の一つは、一方に名前があり、他方に対象があり、では名前と特定の対象を結び付ける客観的ルールについてはどのように理論化したらよいだろうか? ということです。記述理論では、固有名にはその指示対象を特定できる説明的な記述が結び付くと考えます。

 フレーゲの意味論では、【イミ】と【意義】というものが固有名に結び付くとされました。「ヘスペラス=フォスフォラス」に、「ヘスペラス=ヘスペラス」とは違った意味が感じられる理由は、『ヘスペラス』と『フォスフォラス』ではイミは同じだが意義が異なるからだ、といわれます。【イミ】は固有名の指示対象であり、それを特定する説明的な記述が【意義】とされるのです。
 例えばヘスペラスの意義となる記述は、「夕方明るく見える天体」であり、フォスフォラスの意義となる記述は、「明け方明るく見える天体」といった具合です。どちらも同じ天体のことを指している(=イミは同じである)のですが、意義となる記述が異なるというわけですね。またフレーゲは、ある固有名を理解して使用できるとき、前提として、話者はその固有名に結び付いている意義の記述を理解しているはずだと考えました(だからこそ固有名間の意義の違いに気づくこともできる)。

 しかしいま挙げた記述では、まだ意義として不十分だったかもしれません。「夕方明るく見える天体」といっても、そういう天体はたぶんいくつかあるでしょう。意義は、指示対象をただ一つに絞れるだけの内容をもった記述でないといけません。でないと、固有名と特定の対象が客観的に結びついているという前提を満足しません(この前提も、神の視点なればこそです)。何か天空上の座標のようなものも記述に含める必要がありそうです。
 このような、たった一つの対象を特定できる記述は、ラッセルの用語では【確定記述】と呼ばれました。ラッセルは、固有名は確定記述の省略形と見なしてしまってよいと考えました。つまり固有名には、それが登場する文において、それと置換してしまっても文全体の意味を変化させないような同義な確定記述が結び付いていると考えるのです。

 以上を総合した記述理論(フレーゲ-ラッセル見解)の特徴は、ざっくり以下のようにまとめられそうです。

記述理論の基本テーゼ 固有名には記述が結び付く。
記述の特徴① 固有名を用いる話者は、この記述を前もって知っている。
記述の特徴② 固有名と同義(置換可能)である。
記述の特徴③ ただ一つの対象を指示対象として選び出せる内容である。

 クリプキはこの記述理論に対して、「根底から間違っているように思われる」と言って批判しました。この批判を理解するために、まず真理の性質の区別のあいだの区別について、整理が必要です。

ア・プリオリ性/必然性/確実性/分析性

 ここで哲学的な概念である、ア・プリオリ性、必然性、確実性、分析性について触れ、僕なりの解釈でこれら四つの概念の特徴づけをしてみます。というのも、これらの概念は時代によって、あるいは論者によって、その使い方が微妙に異なっていたりして、これぞ標準見解という解釈を提示しづらいのです。例えば以前の記事で触れたクワインの全体論は、分析性という概念の、そもそもの妥当性に対して疑義を投げかける企図で考え出されたものだったそうです。ですから、そもそもそれらの概念はまやかしに過ぎない、という論調をとることさえもできます。ここでは、とりあえずは当記事を書くにあたって適当と思われる立場で解釈していきます。
 さてこの話になると、偉大な哲学者として知られるイマヌエル・カント(1724-1804)の名前がよく出てきます。しかしカント哲学について詳しく知らなくても(僕も全然知りません)、以下引用のような記載から、これらの概念がややこしくて互いに混同しやすいものなのだ、ということに察しがつきます。

哲学者としてのカントの偉大さについて異論があるわけではないが、このように新たな区別がどしどし導入されたせいで、われわれは「区別のあいだの区別」について頭を悩ませることになる。結局、少なくとも四つの区別のあいだの区別が問題となる。つまり、

(I)必然的 ― 偶然的
(Ⅱ)確実 ― 不確実
(Ⅲ)分析的 ― 綜合的
(Ⅳ)ア・プリオリ ― ア・ポステリオリ

の四つの区別のあいだの関係についての問題である。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』(1989年 勁草書房)

 結論的に次のように言えよう。すなわち、カントにおいて、「ア・プリオリ――ア・ポステリオリ」という区別は、「必然的――偶然的」とも、また、「確実――不確実」とも、その外延において一致し、しかも、それだけではなく、しばしば、これらふたつの区別の代わりまで勤めている、と。三種類の区別に対するカントのこうした無造作な態度は、実は、現代にまで持ち越された。たとえば、本文でも取り上げることになるエイヤーの『言語・真理・論理』のなかの「ア・プリオリ」と題された章では、「ア・プリオリ」・「必然的」・「確実」という三つの概念がまったく無差別に用いられている。これを、ただエイヤーの責任であると決めつけることはできないと思われる。カントにもまた責任の一端があるはずである。とはいえ、これら三種類の区別のあいだの区別が主題的に問題とされるようになったのは、ごく最近のことに過ぎない。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』(1989年 勁草書房)

 ところでここ数回の記事を通して見てきた言語理論は、命題(文)の真偽をとても重視していたように思えます。普通、真なる命題(=真理)というのは、この世界の中で成立している事態を正しく言い表す命題のことでしょう。しかし人々は全知全能ではないし、この世界の創造主でもないのだから、本当はこの世界の中で成立している事態について直ちに完全に把握すること、つまり真理に到達することは大変難しそうです。

 そして真理は人々の手の届きにくいところにあるために、人々と真理の関わり方は一筋縄ではいかなくなって、多様化し、それをいくつかの種類に分類できるようになります。こうして、ア・プリオリな真理(対義はア・ポステリオリな真理)、必然的な真理(対義は偶然的な真理)、確実な真理(対義は不確実な真理)、分析的な真理(対義は綜合的な真理)という考え方が生じたのだと、僕は解釈しています。これらは必ずしも互いに排他な概念では無いので、「ア・プリオリで必然的な真理」といった連言も許されます。

ア・プリオリ性

 自然界を調査したり、実験したりといった"経験"を通じて確かめなくても、真であると分かることが、【ア・プリオリな真理】です。逆に確かめてみないと分からないのがア・ポステリオリな真理というわけです。これは、真理にたどりつくためにどのような手続きを踏むか、という観点からの、人々と真理との関わり方についての分類です。

第一に、アプリオリ性という概念は認識論上の概念である。カント以来の伝統的な規定は、次のようなものになると思う。アプリオリな真理とは、いかなる経験にも依存することなく知ることができるものである。

出典:ソール A. クリプキ・著、八木沢敬 野家啓一・訳『名指しと必然性』(1985年 産業図書)

ア・プリオリな認識とは、その正当化のために、いかなる経験をも引き合いに出す必要がない認識であり、それに対して、ア・ポステリオリな認識とは、その正当化のためには、何らかの経験を引き合いに出す必要がある認識である」

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』(1989年 勁草書房)

科学の営みは、自然界の調査や実験を通じて、それまで知られていなかった、この世界に成り立っている様々な事態を明らかにしてきました。例えば人間の身体は細胞の寄せ集めを基本として構成されていて、細胞の中では核酸の構造をもとにタンパク質が作られ、そのことが様々な生命活動の源泉となっています。こういったことは、人類が誕生してから今に至るまで、すべての人間の身体に共通する真理だったはずですが、ここに書いたように言語で表される形になった(=真理として認識された)のは、ここ数百年の科学的探究の成果に依るものです。というわけで、多くの科学的事実とされているものは、ア・ポステリオリな真理でしょう。
 逆に、これぞア・プリオリな真理、と言えそうなものを提示するのは難しいです(そもそも真理はわれわれの手の届きにくいところにあるのだから、調査するまでもなく分かる真理なんてなかなか無い)。ウィトゲンシュタインの哲学が言及しようとした物事(「語りえないもの」)は、たぶんこの領域に属することです。もしかすると、かの有名な命題、「我思う、ゆえに我あり」もア・プリオリな真理かもしれないです。「いま物事を考えている私は存在している」という真理は、自然界の調査や実験を経て確かめられたことでは無いと思います。

必然性

 反事実的状況を想定しても、変わらず真であると思われることが、【必然的な真理】です。想定する状況次第で真になったり偽になったりするような真理は、偶然的です。可能世界意味論を受け容れるなら、もう少し形式ばった定義づけになり、「すべての(到達可能な)可能世界における真理」と言えます。
 「いま物事を考えている私は存在している」という先のア・プリオリな真理は、多分、偶然的な真理ですよね。人は自分が存在しない可能世界を想定することができるからです。ア・ポステリオリな科学的事実も、例えば「生物の遺伝子として働く化学物質が、核酸で無いこともありうるだろう」などと考えることができれば、これも必然的真理では無いような気がします。ただし到達関係による可能世界の制限の仕方によっては必然的と考えることも出来そうなのでした(前回記事参照)。ちなみに万学の祖たる古代ギリシャのアリストテレスは、科学的知識は必然的な知識でなければならない、と考えていたとのことです。

 アリストテレスの『分析論後書』は、かれにとっての科学方法論を展開した書物であると言ってよい。アリストテレスによれば、科学的知識は、それがどのような種類の存在者にかかわるかによって自ずから分かれ、それ独自の分野を形成する。存在者は、いずれも、ある「類 genos」に属し、そうした類の各々に応じて、知識のひとつの領野が存在する。
――(中略)――
「論証的知識は、必然的な原理から由来する。なぜならば、知られるものは、別様にありうるものではないからである。」

すなわち、アリストテレスによるならば、科学の第一原理となるべきものは、それが扱う類に関して必然的に成り立つものでなくてはならない。
――(中略)――
アリストテレスにとって、科学的知識を所有しているということは、知られている当のものが、なぜそうでなくてはならないのかを理解していることである。そのことは、知識のかかわっているものが何であるかを理解していることに存する。さらに、それは、そのものが、いかなる類に属しているかの理解と、その類が何であるか、言い換えれば、その類の本質の理解に存する。類にとっての本質とは、それを欠いてはその類に属するものが存在しなくなる性質であると言えよう。ものの本質は、認識者がもっている言語的枠組みなり理論的枠組みなりによって決まるものではなく、認識者とは独立のものである。第一に、もろもろの存在者がどの類に属するかは、認識者から独立に決まっている。第二に、類の本質とは、認識者が勝手に指定するようなものではなく、類の本質を知るためには、その類を指す言葉を正しく使用できるだけでは十分でない。つまり、ここで問題となっているのは、言語に由来するような必然性ではない。いくつかの類については、その本質は、科学者によって経験的に発見されるものである。そうした類に属する存在者が、その類の本質である性質を有するということは、経験的にしか発見されないとしても、必然的真理なのである。こうした必然性は、認識者に依存するものではなく、ものそのものに由来し、ものの存在を構成する必然性であるから、「形而上学的必然性」と名付けることができよう。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』(1989年 勁草書房)

現代において改めて、必然性を形而上学的な概念として打ち出したのも、今回読んだ本『名指しと必然性』の議論の一部です。後で見るように、クリプキはアリストテレスと近い科学観を提示します。

 問題となる第二の概念は、必然性の概念である。これは、時に認識論的に使われることもあるが、その場合は単にアプリオリの意味だと考えてよい。そして、物理的必然性と論理的必然性とを区別する場合には、もちろん物理的意味で使われることも時にはある。だが私がここで問題にするのは、認識論上の概念ではなく、(望むらくは)軽蔑的でないある意味での形而上学の概念である。あることが真であったかもしれないとか、偽であったかもしれないではないか、とわれわれは問う。さて、もしあることが偽であれば、明らかにそれは必然的に真ではない。もし真ならば、それは真でないこともありえたであろうか。世界が、この点に関して、現にあるあり方とは違っていたことは可能であるのか。もし答えが「否」であれば、世界についてのこの事実は必然的なものである。もし答えが「然り」であれば、世界についてのこの事実は偶然的なものである。このこと自体は、誰のいかなる知識にも関係がない。

出典:ソール A. クリプキ・著、八木沢敬 野家啓一・訳『名指しと必然性』(1985年 産業図書)

 ところで数学的真理については、その必然性にケチをつけるのが難しいのではないでしょうか。「9は奇数である」ということが成立しない可能世界を想定することは大変難しい、たぶん不可能な気がします。もっと高等な数学の証明問題(クリプキが本の中で例示したのはフェルマーの最終定理、ゴールドバッハの予想や四色問題)についても、ある時点では証明未解決なのでその真偽は分かりませんが、将来の探究によって証明されてしまえば、それはア・ポステリオリな手続きによって判明する必然的真理となりそうです。

 『名指しと必然性』の言語哲学史上の重要性は、ここまで引用しながら論じてきたように、ア・プリオリ性と必然性を峻別したところにあるそうです。

現代の議論では、言明がアプリオリであるという概念とそれが必然的であるという概念を区別する人は、たとえいるとしても極めて少ない。ともかく私は、ここでは、「アプリオリ」と「必然的」という術語を交換可能なものとしては使わないつもりである。
――(中略)――
アプリオリなものはすべて必然的であるか、必然的なものはすべてアプリオリであるかのいずれかである、というのは哲学的テーゼであって、明白な定義的同値関係の問題ではないということは確かである。これらの概念は両方とも、不明確なものかもしれない。それはまた別の問題であろう。しかしいずれにしても、それらは二つの異なった領域、二つの異なった分野、すなわち認識論と形而上学とを扱っているのである。

出典:ソール A. クリプキ・著、八木沢敬 野家啓一・訳『名指しと必然性』(1985年 産業図書)

ア・プリオリな真理はすべて必然的真理でもあるという主張には、もっともな理由があると考えられてきた。世界が現にどうであるかについての経験的探求を必要とせずに何かが真であることが知られるならば、その何かは世界がどうあるかと無関係に成り立つと思われるからである。その逆、すなわち、必然的真理はすべてア・プリオリに知られるということもまた、同様に広く信じられてきた。世界がどうあるかと無関係に成り立つ事柄を知るためには、世界が現にどうあるかを見る必要はないだろうからである。ところが、クリプキによれば、いずれの主張も正しくない。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅲ 意味と様相(下)』(1995年 勁草書房)

このように、ア・プリオリ性は認識論的概念であって、必然性は形而上学的概念であるとされ、この二つの概念が必ずしも連動していなくてもよいと示されたことで、ア・プリオリで偶然的な真理と、ア・ポステリオリで必然的な真理が認められるようになります。このことが後で固有名にまつわる議論に関わってきます。

確実性

 真偽について疑いようのない真理が、【確実な真理】です。疑いの余地があるなら、不確実な真理。「不確実な真理」というのは字面にしてみると少し不思議な感じがしますね。これは「真理のような気がするけど、本当は真偽について保留しといた方が良さそうなこと」くらいの解釈をするのが良いかもしれません。

 確実性はそれ自体、別の認識論的概念である。あることがアプリオリに知られ、または少なくとも理性的に信じられながら、全く確実というわけではないということがありうる。数学の本の証明を読んで、それが正しいと思ったとしても、実際は間違いを犯していることがあるかもしれない。この種の誤りはしばしば起こる。おそらく計算間違いをしたのである。

出典:ソール A. クリプキ・著、八木沢敬 野家啓一・訳『名指しと必然性』(1985年 産業図書)

確実な真理は、計算ミスだとか夢オチだとか、人々にとってどうしても排除しきれない「間違い」や「幻覚」という現象が持ち出されるだけで崩れ去ってしまうため、確保するのが大変に難しい真理です。そんな中、既出の「我思う、ゆえに我あり」は、もともと確実な真理を追究する中で打ち立てられたものでしたね。世界のあらゆることについて疑ってかかることはできるけども、「いま物事を考えている私は存在している」という真理は、疑いようが無いのでした。つまりこの真理は、ア・プリオリで偶然的で確実な真理、といえるのかもしれません。一方で科学的事実とされるものは、これは科学哲学を参照して議論した方が良さそうではありますが、常に反証される可能性を留保している不確実な真理と言える気がします。よって科学的事実とされるものは、ア・ポステリオリで、ある意味では必然的で、不確実な真理、ですかね。

 確実性の概念について注意を要することとして、不確実な真理と、偶然的な真理が、どちらも「かもしれない」や「ありうる」といった共通の言葉で表現されてしまうということがあります。
 例えば、「生物の遺伝子として働く化学物質が、核酸で無いこともありうるだろう」という表現について。これを不確実な真理についての言明だと捉えるなら、実はこれまでの分子生物学的な実験すべてに重大な手抜かりがあって、多くの信頼ある科学者たちの残念な誤解が積み重なったことで、核酸が遺伝子であるかのように、現代人は信じ込んでしまっているかもしれないだろう、などという風に解釈できます。偶然的な真理として捉えるときは、現に核酸が生物の遺伝子として働いていることを認めた上で、他の化学物質、たとえばタンパク質とかが遺伝情報を担うような、非現実世界も想定できるだろう(真偽のほどは置いておきます)、といった解釈になるでしょう。不確実性について語るときは現実世界での真理の正当化が問題になるのに対して、偶然性について語るときは非現実的な可能世界における真理の正当化が問題になっています。
 しかし同じ言語表現を共有しているからには、これらの概念を区別する必要も無いのではないか? 区別できるとしても、この二つの概念には何か深い関係があるのではないか? といった思索にふけることもできそうですが、今回はやめておきましょう。

分析性

 前もって取り決められた定義などによって真であることが保証される真理は、【分析的な真理】です。そうでなければ、綜合的な真理です。分析的な真理は当たり前すぎてつまらない真理になりがちです。良く持ち出される例文は、「独身者は結婚していない」などです。同語反復である「ヘスペラス=ヘスペラス」もおそらく分析的真理でしょう。新しい情報をもたらしてくれない、それは当然そうだろ、と言いたくなるような真理です。

 カント的意味での「分析的」ならびに「綜合的」の正確な特徴づけがどのようなものであろうとも(また、現代のわれわれにも満足できるほど正確な特徴づけをカントから期待できるかどうか疑わしいとしてさえ)、綜合的判断を分析的判断から分かつひとつの特徴は、前者がわれわれの認識を増大するのに対して、後者はわれわれの認識を増大するものではない、ということであった。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』(1989年 勁草書房)

 「独身者」という言葉は、それが現れる文において、「結婚していない者」に置き換わっても、文全体の意味に変化が無いように思えます。ですから、「結婚していない者は結婚していない」という同語反復な文が当然真であるのと同じように、「独身者は結婚していない」も当然真であるに決まっているように思われます。
 「独身者」という言葉は「結婚していない者」という記述によってその意味が説明される、つまり、「独身者」にはそれと同義な「結婚していない者」という記述が結び付いていて、この結び付きは「独身者」の意味についての定義であると考えて良いでしょう。
 分析的真理とはこういうもので、定義による裏打ちで真であることが保証されます。ただ、「独身者」のように同義な記述が分かりやすく定義され、分析的真理文を構成できる言葉は、言語全体の中ではきわめて少数の語だけであろう、といわれたりします。

ここで不可欠なのは、パトナムによって導入された、「一基準語 one-criterion word」と「法則群集語 law-cluster word」の区別である。
 一基準語とは、「独身者」がその一例であるが、その語を適用するための単一の基準――「独身者」の場合には「結婚していないこと」――が存在する語である。これに対して、法則群集語は、「運動エネルギー」のように、その語が指している概念のアイデンティティが、多数の法則の集まりによって決定されるものである。一般に、高度に発達した科学に属する用語は、法則群集語である。それだけではない。パトナムによれば、ひとつの自然言語のなかで、一基準語の総数は、せいぜい数百を超えるものではないという。そして、こうしたきわめて少数の語に関するある種の言明については、それらが「分析的言明」であるとすることに問題はない(「独身者は結婚していない」は分析的言明である)というのが、パトナムの主張である。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』(1989年 勁草書房)

 また分析的真理は、ア・プリオリ性と必然性を併せ持つと考えられそうです。「独身者」という言葉を最初に作って定義づけた方がどなたかは知りませんが、この言葉を使いこなす人々は、「独身者」が「結婚していない者」と同義であることを前もって了解していると思われます。よって「独身者は結婚していない」という文は、ア・プリオリな真理と言えます。また、「結婚していない者は結婚している」という状況は反事実的状況だったとしても想像することができない意味不明な状況なので、「結婚していない者(独身者)は結婚していない」は、必然的真理であるようにも思えます。このように、同義な記述による定義によって裏打ちされる分析的真理は、ア・プリオリ性と必然性を伴うと思われるのです。

いずれにせよ、分析的言明は何らかの意味で、その<意味>によって真であり、またその<意味>によってすべての可能世界で真であるということを、手っ取り早く約定(stipulation)の問題だとしておこう。すると、分析的に真であるものは、必然的かつアプリオリであるということになろう。(これは多少とも約定上のことである)。

出典:ソール A. クリプキ・著、八木沢敬 野家啓一・訳『名指しと必然性』(1985年 産業図書)

 ところで固有名についての記述理論は、固有名には確定記述が結び付くと考え、その記述は固有名と同義(置換可能)なものであり、話者はその記述を前もって知った上で固有名を用いることができると考えるものでした。
 この理論は、上記の分析的真理の特徴と重なります。つまり記述理論では固有名の意味が、それと同義な記述によって分析的に定義されるものと考えられているようなのです。それではつまり、固有名『ヘスペラス』に結び付く記述が、「夕方、座標××に位置して明るく見える天体」だったとして、「ヘスペラスは、夕方、座標××に位置して明るく見える天体である」という文は分析的に真であり、ア・プリオリに真であり、必然的に真でしょうか? 固有名『ヘスペラス』を使用できる話者は、その天体が「夕方、座標××に位置して明るく見える天体」であることを前もって知っていて、かつ、その天体が他の時間帯、他の座標で、たいして明るく見えないような可能世界を想像することはできないのでしょうか? そんなことは無いだろう、というのがクリプキの主張です。

ア・プリオリで偶然的 定義の区別と固定指示

 さて、真理の区別について一応整理した上で、「一メートル」の定義を例にして展開されたクリプキの考察を引きます。「一メートル」を固有名のような名前と考え、「棒Sの長さ」を、名前の意味を定義する記述と考えるものです。

文献に見られる別の種類の例は、一メートルとはSの長さであるとする、ただしSはパリにある一定の棒である、というものである。
――(中略)――
「棒Sは一メートルの長さである」という言明は必然的真理だろうか。もちろん、その長さは時間と共に変化するかもしれない。その定義をより正確にするために、一メートルとは決められた時刻t0におけるSの長さとする、と約定することもできよう。それなら、棒Sは時刻t0において一メートルの長さである、ということは必然的真理だろうか。アプリオリに知られることはすべて必然的であると考える人ならば、次のように考えるかもしれない。「これは一メートルの定義である。定義によって、棒Sはt0において一メートルの長さである。したがって、それは必然的真理である」と。しかし前述の「一メートル」の定義を使う人にとってさえ、そう結論する理由は何もないように私には思われる。というのも、彼はこの定義を、彼が「メートル」と呼ぶものの意味を与えるためにではなく、その指示を固定するために使っているのだからである。
――(中略)――
彼は依然として「もし、熱が時刻t0にこの棒Sに加えられたとしたら、t0において棒Sは一メートルの長さではなかったであろう」と言えるのである。
――(中略)――
「一メートル」という句と「t0におけるSの長さ」という句の間には直観的な違いがある。第一の句は、一定の長さをすべての可能世界で固定的に指示し、その長さは現実世界ではたまたまt0における棒Sの長さである、ということを意味する。
――(中略)――
この定義は正しく解釈される限り、「一メートル」という句は「t0におけるSの長さ」という句と同義であると言っているのではなく(たとえ反事実的状況について語っている時ですら)、むしろ「一メートル」とは実際にt0におけるSの長さであるような長さの固定指示子であると約定することによって、われわれは「一メートル」という句の指示を決定したのだと言っているのだからである。
――(中略)――
 だとすれば、棒Sへの指示によってメートル法を固定した人にとって、「棒Sはt0において一メートルの長さである」という言明はいかなる認識論的地位を占めるのであろうか。彼はそのことをアプリオリに知っているように思われるであろう。なぜなら、「一メートル」という名辞の指示を固定するために棒Sを使ったのなら、(略語や同義語による定義ではない)この種の「定義」の結果として、Sが一メートルの長さであることを、それ以上調べなくとも彼は自動的に知るからである。他方、たとえSが一メートルの基準として使われるとしても、「一メートル」が固定指示子と見なされるならば、「Sは一メートルの長さである」の形而上学的地位は、偶然的言明のそれであろう。適当な圧力とひずみ、加熱や冷却の下では、Sはt0においてさえ一メートル以外の長さであったかもしれない。(「水は海水面では摂氏一〇〇度で沸騰する」といった言明も、同じような地位をもちうる)。それゆえこの意味において、偶然的でアプリオリな真理が存在するのである。だが、この例を偶然的でアプリオリなものの例として承認することよりも、現下の目的にとって重要なことは、これが指示を固定する「定義」同義語を与える「定義」との間の区別を具体的に示しているということである。

出典:ソール A. クリプキ・著、八木沢敬 野家啓一・訳『名指しと必然性』(1985年 産業図書)

 ここでは、指示を固定する定義同義語を与える定義の区別が提案されています。「独身者」は、「結婚していない者」といった、同義な記述を結び付けることでその意味が定義されているのでした。よって「独身者は結婚していない者である」という文は、「独身者」についての、同義語を与えるタイプの定義文と考えることができ、分析的で、ア・プリオリかつ必然的でもあります。
 もし「一メートル」の意味の定義も同義語を与えるタイプの定義であったなら、「t0における棒Sの長さが一メートルでは無いこともあり得ただろう」という文は、「t0における棒Sの長さがt0における棒Sの長さでは無いこともあり得ただろう」と同じ意味の文として解釈されるはずで、これは「結婚していない者は結婚している」のように、意味不明な文です。しかし直観的に言って、「t0における棒Sの長さが一メートルでは無いこともあり得ただろう」という文は、(様相表現を認める限りは)有意味な文に思えます。
 そのため、「一メートル」の定義はもう一つのタイプ、指示を固定するタイプの定義によって、その意味が決められていると考えられます。「一メートル」という名前は、いかなる可能世界について語られるときであっても、現実世界の実際の時刻t0における棒Sの長さを、固定的に指示していると思われるのです(前回記事の惑星の数の例文におけるスマリヤンの読み⑪と似てますね)。このような語をクリプキは【固定指示子】と呼びます。

幾つかの術語をなかば専門用語として使うことにする。ある言葉があらゆる可能世界において同じ対象を指示するならば、それを固定指示子(rigid designator)と呼ぼう。
――(中略)――
 この講義で私は、次のように議論を進めるつもりである。すなわち、直観的に言って、固有名は固定指示子である。なぜなら、その男(ニクソン)は大統領でなかったかもしれなかったとしても、ニクソンでなかったかもしれなかったということは実情に反するからである(彼が「ニクソン」と呼ばれなかったことはありうるかもしれないが)。

出典:ソール A. クリプキ・著、八木沢敬 野家啓一・訳『名指しと必然性』(1985年 産業図書)

 例えば固有名『みどりむしエレナ』が現実の僕という対象を指示するとして、その意義(Sinn)、つまり『みどりむしエレナ』と同義な確定記述は「知性をもったミドリムシのVTuber」あたりが適当そうです。この記述はこの広い世界の中で、僕を唯一選び出すことができる確定記述で、『みどりむしエレナ』を理解しているということはこの記述の内容を理解しているということです。これが固有名の記述理論です。これを認めるとき、「みどりむしエレナは知性をもったミドリムシのVTuberである」は、同義な記述を与えるタイプの定義文であり、従って、それはア・プリオリかつ必然的な真理でもあるはずです。
 しかし、僕がミドリムシでない可能世界を想定することも、できるのではないでしょうか(!!!)。その可能世界では、みどりむしエレナはどこか怪しい研究所に勤める何の変哲もない一人の研究員で、たまにミドリムシ解説動画をYouTubeにアップロードしてYouTuberのまねごとをするのがささやかな趣味だったりするのです(なんて平凡で面白くない世界!!)。しかし、(いまこうして語っているように)その世界について語るときでも、みどりむしエレナがみどりむしエレナで無くなっているわけではありません。
 同義なはずの確定記述が偽である可能世界についての語りであるにも関わらず、「みどりむしエレナがミドリムシで無かったら…」という文は意味不明ではなく、みどりむしエレナが存在しない状況を語っているわけでもないように思えるのです。よって、固有名『みどりむしエレナ』は同義な記述をあてがうことでは定義されていないのです。現実世界における知性をもったミドリムシのVTuberを固定的に指し示す名前として『みどりむしエレナ』が名付けられています。
(後で見るようにクリプキの考えに沿うならおそらく、みどりむしエレナがミドリムシであることは必然的本質なのですが、その点について僕は異なる見解を持つので、一旦この例えで行かせてください)

ヒトラーは全生涯をリンツで静かに送ったのかもしれない。その場合われわれは、だとしたらその男はヒトラーではなかったのだとは言わないだろう。
――(中略)――
「ヒトラー」の指示対象を、歴史上他の誰がやってのけたよりも多くのユダヤ人を殺すことに成功した男、として選び出すことに決めたとしよう。それが、われわれがその名前の指示対象を選び出す手続きである。だが、他の誰かがこの不名誉を担ったかのような別の反事実的状況においては、われわれは、その場合にはその別の男がヒトラーだったのだ、とは言わないだろう。もしヒトラーが決して権力を握ることがなかったとしたら、ヒトラーはその名前の指示を固定するためにわれわれが使うことにした性質はもたなかったことであろう。

出典:ソール A. クリプキ・著、八木沢敬 野家啓一・訳『名指しと必然性』(1985年 産業図書)

 このように、ある固有名の指示対象について現実世界で真である確定記述は、たいていの場合、それが偽となる可能世界を考えることができてしまうのです。しかし、そんな可能世界だからといって、より記述に一致している別物がその固有名の指示対象になるとか、指示対象が見失われているとかいった事態は起きません。固有名は、意義とされる記述の真偽に関わらず、どんな可能世界についての語りであっても頑なに同じ対象を指示し続けるように思えるのです。これが、記述理論の考え方に対する批判のひとつです。

 記述理論では、固有名には記述が結び付くとされますが、実はその記述の真偽に関係なく、固有名の対象指示が成立するのであれば、記述理論は固有名論にとって余計なモデルであって、妥当性が疑わしくなります。他にも、クリプキの記述理論批判の論点は複数にわたっていますが、ここですべてを取り上げることはしません。

 ところで記述理論が疑わしいとなった場合、記述理論が考え出された背景となっていた「名前と特定の対象を結び付ける客観的ルールについてはどのように理論化したらよいだろうか?」という課題に、別の視点からの解答を用意する必要が出てきます。
 クリプキは、それが完成した理論ではなく、少なくとも記述理論よりはましな見取り図であると前置きした上で、後に【指示の因果説】と呼ばれるような指示決定の見方を提案しました。

一般にわれわれの指示は、われわれが自分なりに考えていることだけではなく、共同体内の他の人々や、いかにしてその名前が自分に到達したかという歴史や、そのようなものにも依存している。指示対象に到達するのは、このような歴史を辿ることによってなのである。
――(中略)――
 一つの理論としては、概略次のように言えるかもしれない。最初の「命名儀式(baptism)」が起こる。ここでは、対象は直示によって命名してかまわないし、また名前の指示は記述によって固定してかまわない。名前が「結節点から結節点へと受け渡される」時、名前の受け手は、私の考えでは、その名前を学ぶに当って、それを伝えてくれた人と同じ指示でそれを使うことを意図せねばならない。

出典:ソール A. クリプキ・著、八木沢敬 野家啓一・訳『名指しと必然性』(1985年 産業図書)

 たしかに「一メートル」にしても、メートル法の長さを用いる人々皆が実際にその基準になる棒Sを見に行って、それに指示を固定する儀式を行うはずはないですよね。どうやら一メートルは棒Sの長さが基準になって決まったものらしいという伝聞情報だけで、メートル法の長さを十分適切に利用できるでしょう。いや、この場合、よほどの正確さを求めない限り、基準についての伝聞情報も必要無く、信頼できる巻き尺が手元にありさえすれば、その目盛りを以て一メートルを適切に利用できるでしょう(この巻き尺は棒Sの長さを正確に写し取ることを意図して作られたはず)。
(余談ですがこのような棒Sのことを「メートル原器」というらしいです。また、現在の一メートルの定義はこのような代表物による基準ではなく、光が一定時間内に進む距離が、定義として採用されているそうです。)

 もともと、名前と特定の対象を結び付けるルールがあるという前提自体が、神の視点から見た世界の言語理論ならではの前提だと思います。実際には、なんらかのいきさつで特定の対象に名付けられた固有名が、その名付けの意図を損なわないように注意されながら人々のあいだを伝播した経緯の結果として、名前と特定の対象があたかも客観的に強固に結び付いているかのように感じられる、というのが、名前と対象の結び付きの正体ということでしょう。

ア・ポステリオリで必然的 固有名間の同一性言明

 ここでは固定指示子の概念から導かれる、固有名どうしの同一性言明についての考察に触れておきます。

 次に私は、同一性に関する言明という主題について話したいと思う。同一性言明は必然的か、それとも偶然的か。この問題は、最近の哲学においていささか論議を醸し出している。第一に、記述が偶然的同一性言明を作るのに使える、ということには誰もが同意している。もし二重焦点眼鏡を発明した男がアメリカの初代郵政長官であった――それらが同一人物であった――ことが真であるならば、それは偶然的に真である。すなわち、一人の男が二重焦点眼鏡を発明し、別の男がアメリカの初代郵政長官であったかもしれなかった。それゆえ、記述を使って同一性言明を作る時――「φxであるようなxとψxであるようなxは同一である」と言う時――それが偶然的事実でありうることは確かである。しかし哲学者たちは、名前の間の同一性言明の問題にも関心をもってきた。「へスペラスはフォスフォラスである」とか「キケロはタリーである」とか言う時、われわれが言っていることは必然的であるのか、それとも偶然的であるのか。

出典:ソール A. クリプキ・著、八木沢敬 野家啓一・訳『名指しと必然性』(1985年 産業図書)

 ここでクリプキは、固有名間の同一性言明「ヘスペラスはフォスフォラスである」は、それが現実世界で真と認められているならば、必然的に真であると考えます。

 固有名が固定指示子であるなら、どんな可能世界についての語りであっても、その固有名は同じ対象を頑なに指示し続けるはずです。これはつまり、固有名と指示対象は必然的に結び付いているということです。であれば、固有名Aに必然的に結び付く指示対象aと、固有名Bに必然的に結び付く指示対象bが、同一であることがひとたび認められてしまえば、その同一性も、いかなる可能世界であっても必然的に成立するはず、とのことです。

 このことは不思議に思われるかもしれません。本当にこの同一性が必然的真理なら、「ヘスペラスとフォスフォラスは同一でないかもしれない」という偶然性を示すと思われる言明は、意味不明な文になるはずですが、直観的にはそう思えないからです。それは、この文が表現していることが、実は偶然的な言明ではなく、不確実な言明であることに気づきにくいからです。既に言及した通り、この二つは紛らわしいのですが、区別可能な真理概念なのです。

 さて、これは非常に奇妙なことに思われる。というのも、われわれは前もって、へスペラスはフォスフォラスか否かという問題への答えはどちらの側にも転びえた、と言いたいからである。それゆえ、これらが同じものであるというわれわれの発見に先立って、本当に二つの可能世界――一方はヘスペラスがフォスフォラスではなかった世界――が存在するのではないのか。まず第一に、一つの意味で物事がどちらにも転びえたということはその通りだが、そこにはその最終的な転び方が必然的ではないということは含意されていない、ということは明らかである。たとえば、四色問題は真であることが判明するかもしれないし、偽であることが判明するかもしれない。どちらにも転びうるのである。それでも、その転び方が必然的でないということを、それは意味しない。明らかに、「かもしれない(might)」はここでは純粋に「認識的」である――それは単に、われわれの現在の無知あるいは不確実性の状態を表しているにすぎない

出典:ソール A. クリプキ・著、八木沢敬 野家啓一・訳『名指しと必然性』(1985年 産業図書)

 「ヘスペラスとフォスフォラスは同一でないかもしれない」という言明は、現実世界における不確実な真理についての言明なのです。ここで問題となっている、固有名間の同一性言明の必然性は、「もしそれが現実世界で真であることが実際に認められるのなら」という条件をつけた上で(条件つきで不確実性を払拭した上で)、同一性は必然になるだろうと言っているのです。ちょうど数学的真理が、証明未解決のときにはその真偽の決定が不確実であっても、それが真であることが証明されれば、必然的に真であろうし、偽であることが証明されれば、必然的に偽であろうということと同じなのです。つまり、固有名間の同一性は、ア・ポステリオリで必然的な言明なのです。

つまり「ヘスペラス」と「フォスフォラス」が、われわれが使うようにこの惑星の名前としてではなく、何か別の物の名前として使われているような反事実的世界においては、質的に同一の証拠をもちながら、「ヘスペラス」と「フォスフォラス」は二つの異なる対象の名前である、と結論することもできる。しかし、これらの名前を今まさにわれわれが使っているように使う限り、われわれとしては前もって、もしヘスペラスとフォスフォラスが同一物であるならばそれらはいかなる他の可能世界においても別物ではありえない、と言えるのである。われわれは「ヘスペラス」を一定の物体の名前として、また「フォスフォラス」を一定の物体の名前として使っている。われわれはこれらの名前を、すべての可能世界においてそれらの物体の名前として使うのである。もしそれらが現に同じ物体であるならば、他のどんな可能世界においても、われわれはこれらをその対象の名前として使わなければならない。したがって、他のどんな可能世界においても、ヘスペラスはフォスフォラスであるということは真となるであろう。それゆえ、二つの事柄が真である。第一に、われわれはヘスペラスがフォスフォラスであることをアプリオリには知らないのであり、経験を介さずにその答えを見出す立場にはない。第二に、そうである理由は、われわれが実際にもっている証拠と質的に区別できない証拠をもち、その二つの名前の指示を二つの惑星の天空上の位置によって決定しながらも、それらの惑星が同一でない、ということがありうるからである。
――(中略)――
ヘスペラスを夕方見える特定の星として同定し、フォスフォラスを朝方見える特定の星ないしは特定の天体として同定するとしよう。すると、二つの異なる惑星が、夕方と朝方にちょうどそれらの位置に見えるような可能世界があるかもしれない。しかしながら、少なくともそのうち一つは、そしておそらくは両方とも、ヘスペラスではなかったであろう。だとすれば、それは、ヘスペラスがフォスフォラスでないような状況ではないであろう。それは、夕方にこの位置に見える惑星が、朝方にこの位置に見える惑星ではないような状況ではあるかもしれない。だがそれは、ヘスペラスがフォスフォラスでないような状況ではないのである。もし人々がこれらの惑星に「ヘスペラス」と「フォスフォラス」という名前をつけたとすれば、それはまた、ヘスペラス以外のある惑星が「ヘスペラス」と呼ばれた状況ではあるかもしれない。しかし、そうであるとしても、それはヘスペラスそれ自身がフォスフォラスではなかったような状況ではないであろう。

出典:ソール A. クリプキ・著、八木沢敬 野家啓一・訳『名指しと必然性』(1985年 産業図書)

ものの本質に言及するということ

 記述理論を批判する中で、ある固有名の指示対象について現実世界で真である確定記述は、たいていの場合、それが偽となる可能世界を考えることができてしまうことが示されました。しかしクリプキは、ある種の記述(性質)に限っては、固有名の指示対象について必然的に真であるように思える、と言います。ある対象について必然的に成り立つ性質とは一般に、その対象の【本質】であると言われます。クリプキが本質であると考えたのは、対象の起源です。

問題は実際には、たとえば、その女王――この女性その人――は彼女が実際に生まれた両親とは別の両親から生まれえただろうか、というものであるべきなのである。彼女は、たとえば、代りにトルーマン夫妻の娘でありえたのだろうか。
――(中略)――
彼らは、多くの点で彼女に似ている子供を持ったかもしれない。おそらくある可能世界では、トルーマン夫妻は、実際にイギリス女王になってしかも別の両親の子供として通しおおせたような子供を持ちさえしたかもしれない。これは、それにもかかわらず、われわれが「エリザベス二世」と呼ぶまさにこの女性がトルーマン夫妻の子供であった、という状況ではあるまい。私にはそう思われる。それは、実際にエリザベスについて真である性質の多くをもった誰か別の女性がいた、という状況であろう。さて一つの問題は、この可能世界ではエリザベス自身は果たして生れたのか、ということである。彼女はそもそも生れなかった、と仮定しよう。とすれば、それは、トルーマンとその妻にはエリザベスのもつ性質の多くを備えた子供がいるけれども、エリザベス自身はおよそ存在しなかったような状況であろう。
――(中略)――
別の両親、全く違う精子と卵子から発生した人物が、いかにしてまさにこの女性でありうるのか。その女性が与えられたとして、彼女の一生で様々なことが変わりえたと想像すること、すなわち彼女が貧民になった、彼女が王家の血筋であることが知られていなかった、等々と想像することはできる。たとえば、特定の時刻までの世界の歴史が与えられており、その時点から歴史は現実の道筋とは大きくたもとを分かつ。これは可能だと思われる。したがって、たとえ彼女がこれらの両親から生まれたとしても、マーク・トウェインの登場人物のように、彼女は別の少女と入れ替わった、ということは可能である。しかし、それ以上に想像しがたいのは、彼女が別の両親から生まれるということである。何であれ別の起源から生ずるものは、この当の対象ではないように私には思われる。

出典:ソール A. クリプキ・著、八木沢敬 野家啓一・訳『名指しと必然性』(1985年 産業図書)

 僕の私見では、以上のようなクリプキの主張は間違っているように思います。言語や思考の可能性はもっと自由だと思うのです。「もしAさんがB家に生まれていたら、」とか、「もしみどりむしエレナが人間だったら、」とかいう、指示対象の起源が現実とは全く異なる状況を含意する語りも、十分に有意味な言明として捉えることができるように思えます。クリプキがものの起源をその本質と考えるのは、彼の想像できる論理空間が、言語に許されためいっぱい広い論理空間に比べて、何らかの到達関係で制限された狭い論理空間になっているからではないかと思います。
 もしかすると僕がここまで言語の自由さを高く感じることができるのは、「生まれ変わり」や「転生」の概念が染み付いた文化圏で言語能力を形成してきたからかもしれません。言語や思考の可能性と文化が密接に関わっているであろうことは容易に想像がつきます。

 しかし僕も、固定指示対象に帰せられるべき本質というものはあると思ってます。自分の中でもまだ整理しきれていないのですが、以前読んだ本から言葉を拝借すれば、それは「物語」です。特別に名前の付いた個体には、その個体だけに当てはまるエピソードが蓄積されていくように思えます。それが人なら、性格や日々の言動とか。この辺りは、あまりにもぼんやりした考えしかないためこれ以上詳しく書くこともできないのですが、何にせよ、個体を固定指示の対象とすることができるためには、個体に何らかの本質を見出せる必要が、それが起源でないにせよ、やはりあるのではないかと思っています。

科学が自然種の本質を発見するということ

 『名指しと必然性』においてクリプキは、ここまで確認して来た彼の固有名論に基づいて、自然種名も固有名と似た性質を持っていることを主張します。ここでは、言語哲学の範疇にとどまらない、クリプキの科学観が提示されます。

 第一に私の議論は、自然種を表すような特定の一般名辞は普通に理解されているよりもはるかに固有名に似ている、と暗に結論づけている。「猫」、「虎」、「金塊」のような可算名詞であろうと、「金」、「水」、「黄鉄鉱」のような量名辞であるとを問わず、この結論は様々な種族名に対して成立する。

出典:ソール A. クリプキ・著、八木沢敬 野家啓一・訳『名指しと必然性』(1985年 産業図書)

そもそも僕が『名指しと必然性』を読みたかったのは、この部分を確認したいからでした。3記事にわたる言語哲学大全Ⅰ・Ⅱ・Ⅲの読解も、ここまでの固有名論の確認も、すべて自然種名についてのクリプキの主張を理解したいがためにやってきたことです。(長かった、、、)
 ここでは、これまで確認して来た固有名に関する様々な考え方(記述理論批判、固定指示、指示の因果説、ア・ポステリオリな必然性、同一性についての必然性、不確実性と偶然性の区別、本質の概念)が、必ずしも明示はされませんが総動員されます。これまでの議論が理解できていないと、クリプキの自然種名論を支えている思考も見えてこないのです。

 まずは、記述理論批判の路線に沿って、自然種名がその表面的な特徴(偶然的な性質)についての記述と同義なものとして定義されるものでは無さそうだということを見ていきましょう。

金は実は黄色ではなかった、ということをわれわれは発見しうるだろうか。南アフリカやロシアやその他金鉱の多い特定の地域の大気が特殊な性質をもつため、ある視覚上の錯覚が広まっていたとしよう。当の物質を黄色に見せる視覚上の錯覚が存在したけれども、実際にいったん大気の特殊な性質が取り除かれた後では、それは現実には青色であったことがわかるものとしよう。
――(中略)――
これに基づいて、「金などはないということがわかった。金は存在しない。われわれが金だと思っていたものは、実は金ではない」という発表が新聞に出るだろうか。
――(中略)――
そのような発表はあるはずがない、と私には思われる。逆に、発表されそうなのは、金は黄色に見えたが、実は黄色ではなく青色であることがわかった、という方であろう。

出典:ソール A. クリプキ・著、八木沢敬 野家啓一・訳『名指しと必然性』(1985年 産業図書)

 「歴史上他の誰がやってのけたよりも多くのユダヤ人を殺すことに成功した男」が居ない可能世界を想定したとしても、それでヒトラーが存在しないことにはならないように、鉱山で採掘される金属が黄色ではなく青色であったという程度のことで、金が存在しないことにはならなそうです。であれば、固有名の事情と同じように、やはり『金』も現実の何らかの対象を固定的に指示しているのでしょうか。

 しかし自然種名は固有名と違い、たった一つの対象を指示するのではなく、自然界に見出せるある種類(=自然種)を指示していると思われます。「種類」というのも、深く考えだすと厄介な概念という気がしますが、およそ複数のサンプルが属することで形成される集合のようなものとしておきましょう。

 ここでクリプキは、自然種とは、それに属するサンプルすべてに共通する必然的性質(つまり何らかの本質)を見出せると想定される集合だ、と考えたようです。「想定される」というのが重要なポイントです。自然界のものごとは調べてみないと分からないから、初めから本質が何であるかを確定させておくことはできないのです。きっと何か本質のある集合だろうと期待されて名付けられる名前、それが自然種名なのです。

虎にそっくりに見えながら、調べてみると哺乳類ですらなかったことがわかるような動物が、世界のどこかで発見されるかもしれない。それらは実際は、極めて特殊な外見をもつ爬虫類であったと仮定しよう。その場合、この記述に基づいてわれわれは、何頭かの虎は爬虫類であると結論するだろうか。しないのである。われわれはむしろ、これらの動物は、最初に虎を同定するために使った外見的標識をもってはいるが実際には虎ではない、と結論するだろう。それらは、われわれが「虎という種」と呼んだ種と同じ種ではないからである。ところで私の考えでは、これは、ある人々が言うように、虎の古い概念が新しい科学的定義に取って代わられたからではない。このことは、虎の内部構造が調査される以前にも、虎という概念について真であった、と私は思う。たとえ虎の内部構造を知らなくとも、われわれは虎が特定の種あるいは自然種を形成すると考える――そして、われわれの考えは正しいとしよう。すると、虎の外見をすべて備えながら、それは同じ種類のものではないと言わねばならないほど虎とは内部的に違うような生き物がいる、とわれわれは想像することができる。この内部構造――この内部構造がどのようなものか――について何一つ知らなくとも、われわれはそれを想像することができるのである。われわれは一つの種を指して「虎」という言葉を使うのであり、この種に属さないものは、たとえ虎にそっくりであっても実際には虎ではない、と前もって言うことができる。
 われわれが最初に虎を同定するために使った性質をすべて備えながら、虎ではないものがあるかもしれないのと丁度同じように、われわれが最初に虎を同定するために使った性質のどれももたないような虎が発見されるかもしれない。ひょっとすると、いかなる虎も四本足ではなく、黄褐色でもなく、肉食でもない、といったように。金の場合のように、これらの性質がすべて視覚上の錯覚や他の誤りに基づいていた、ということが判明するかもしれない。

出典:ソール A. クリプキ・著、八木沢敬 野家啓一・訳『名指しと必然性』(1985年 産業図書)

 自然種名とはこのように、本質を持つと想定される(期待される)ある種類に名付けられた名前です。また本質とは必然的性質であるが故に、自然種名の指示も必然的なものとなり、事実上の固定指示子となります。

 ある自然種の本質が具体的に何であるかは、科学的探究により発見されるものだ、とクリプキは考えます(これによりクリプキの言語理論は彼の科学観と接続されます)。
 科学的探究によって得られる真理は、ア・ポステリオリな真理です。そして本質とは、すべての可能世界で真である、必然的な性質のことでした。よって、科学的探究により発見される自然種の本質とは、自然種についてのア・ポステリオリで必然的な性質ということになります。これは、先に確認したように、ア・プリオリ性と必然性が峻別されていなければ出てこない考察でしょう。

 また、科学的探究によって得られる真理は不確実な真理ですから、探究を経て、初めは本質と信じられていたものが実は偽であることが分かったり、新たにより本質として相応しい性質が発見されたりします。しかし、不確実で真偽を確定しきれない発見であっても、科学的探究における毎回の発見の報告は、それが必然的な性質を発見したものと期待されて行われます。現在、ある自然種の本質と考えられているある性質が、将来には間違った理論に基づいたものだと判明するかもしれませんが、いまその性質が本質として認められているのなら(条件付きで不確実性を払拭するなら)、それは必然的性質として扱われるのです。

つまり、物質は与えられたサンプル(のほとんどすべて)によって例示される種として定義されるのである。「ほとんどすべて」という限定は、サンプル中に金まがいが少しは混じっているかもしれないことを許容する。もし、当初のサンプルの中に少数の異物が入っていれば、それらは実は金ではないものとして除かれるであろう。他方、当初のサンプルの中には一つの同質の物質または種しか入っていないという仮定がさらに根本的に間違っていたことが判れば、様々な反応がありうる。われわれは、時には二種類の金があると宣言するかもしれないし、また時には「金」という名辞を使わなくなるかもしれない。(これらの可能性ですべてが尽くされている、というわけではない)。そして、新しい種だと申告されるものは、別の理由から架空のものであるとわかるかもしれない。たとえば、幾つかの品々(それらの集合をIとしよう)が発見され、それらは新しい種Kに属すると信じられているとする。後になって、Iの中の品々は確かに単一の種ではあるが、しかしながら前もって知られている種Lに属する、ということが発見されたとしよう。観察上の誤りにより、Iの中の品々はそれらをLから排除する何らかの特性Cをもっている、と当初は間違って信じられていたのである。この場合、同質の当初のサンプルを参照することによって定義されたという事実にもかかわらず、種Kは存在しない、とわれわれはきっと言うであろう。(注意しておけば、もしLが前もって同定されていなかったとしたら、われわれが、Kは実際に存在するがそれを特性Cと結びつけて考えたことは誤りだった、と言うことは十分にありうる!)。「同種」という概念が曖昧であるのと同じ程度に、金の最初の概念もまた曖昧なのである。

出典:ソール A. クリプキ・著、八木沢敬 野家啓一・訳『名指しと必然性』(1985年 産業図書)

科学的探究は一般に、金の特性の当初の集合よりもはるかに優れた特性を発見する。たとえば、ある物体はそこに含まれる唯一の元素が原子番号七九のものである時、そしてその時にのみ(純)金である、ということが判明する。ここで、「の時、そしてその時にのみ(if and only if)」は、厳密(必然的)であると見なしてよい。一般に科学は、基本的な構造的特質を探究することによって種の本性、したがって(哲学的意味における)その本質を見出そうとする。

出典:ソール A. クリプキ・著、八木沢敬 野家啓一・訳『名指しと必然性』(1985年 産業図書)

金の原子番号が実際に七九であると認められたとすれば、原子番号七九でないものが金でありうるだろうか。科学者が金の本性を調べ上げて、原子番号が七九をもつことが、いわば、この物質のまさに本性の一部であることを発見したとしよう。そこで、われわれが最初に金を同定するために使ったすべての性質と、その後発見された付加的な性質の多くをもった、何か別の黄色い金属あるいは何か別の黄色い事物を見つけたとしよう。もともとの性質の多くを備えたものの例は黄鉄鉱である。前に述べたように、われわれはこの物質を金だとは言わないであろう。これまでは、現実世界について語ってきた。さて、可能世界を考えよう。たとえば、アメリカのあちこちの山々とか南アフリカやソ連の諸地域で、金まがいないしは黄鉄鉱が実際に発見されたという反事実的状況を考えよう。今現実に金を保有するすべての地域が、代わりに黄鉄鉱、あるいは金の表面的な性質に酷似しながらその原子構造は欠いている何か別の物質を含有していたとする。この反事実的状況について、われわれは、その状況の下では金は元素ですらなかった(なぜなら、黄鉄鉱は元素ではない)と言うだろうか。そうは言わない、と私には思われる。その代りに、われわれはこの状況を、金ではない物質、かりに黄鉄鉱としよう、が現実に金を含有するまさにその山々で発見され、われわれがいつも金を同定するために使うまさにその性質をもっているような状況として記述するだろう。しかし、それは金ではあるまい。それは何か別のものであろう。金はその場合原子番号七九を欠いているにせよ、この可能世界ではそれはやはり金なのだ、などと言うべきではない。それは何か別の素材、何か別の物質であろう。(もう一度言えば、人々がそれを反事実的に「金」と呼んだかどうかは問題ではない。われわれは、それを金として記述しはしないのである)。それゆえ、これは金が元素でなかったかもしれないというケースでもなければ、また(「可能な」の認識的意味を除けば)そのようなケースはありえない、と私には思われる。金がこの元素であると認められている以上、他のどんな物質も、たとえそれが金にそっくりであり、実際に金が見出される当の場所で発見されるとしても、金ではないであろう。それは金に酷似した何か別の物質であろう。同じ地理的地域がこのような物質で満たされているようないかなる反事実的状況においても、それらの地域が金で満たされているわけではあるまい。何か別のもので満たされていることだろう。
 それゆえ、以上の考察が正しければ、そのことは、この素材が何であるかに関する科学的発見を表わす言明は偶然的真理ではなく、可能な限り厳密な意味で必然的真理である、ということを示すのに役立つ。厳密には、それは科学法則であるというわけではなく、むろんわれわれは、それが成立しない世界を想像することができる。とはいえ、これらの性質がその物質が何であるかの基盤をなすものである限り、これらの性質をもたない物質が想像される世界はどれも、金ではない物質が想像される世界なのである。とすれば、とりわけ現在の科学理論では、原子番号七九の元素であることは、われわれが理解する限りで金の本性の一部なのである。それゆえ金が原子番号七九の元素であることは、必然的であって偶然的ではないということになろう。

出典:ソール A. クリプキ・著、八木沢敬 野家啓一・訳『名指しと必然性』(1985年 産業図書)

 僕の独自解釈によれば、以上の自然種に対する考え方は、以下のようにまとめられます。

① 自然種は自然界に存在する事物の集合である。
② 集合のメンバーには形而上学的な意味で必然的な性質(本質)が共有されることが、認識論的な意味でア・プリオリに前提(期待)されている。
③ 自然種名は、こうした本質をもつ集合に対して、指示が固定された名前である。本質の存在を想定できることが自然種の固定指示の要件であって、その具体的な正体が何であるかは、必ずしも指示の決定に関わらない。
④ 本質の具体的な正体は、ア・ポステリオリな科学的探究によって発見されうる。
⑤ 科学的探求がもたらすものは不確実な真理なので、ある自然種についてそれまで本質と信じられていたものよりも、本質として相応しい別の性質が発見されること等がある。

 クリプキは、⑤のようなことが起きて、ある自然種の本質についての理解が変化したとしても、それは「意味の変化を引き起こさない」と言います。③のように自然種名とは、あくまで何らかの本質を持った種類を固定的に指示することだけが決められた言葉であって、同義な具体的性質(記述)により定義されるタイプの言葉では無い、と考えられるからです。

 筆者の見解に即せば、種の本質の科学的発見は「意味の変化」を引き起こさない、ということに注意されたい。そうした発見の可能性は、最初から計画の一部に組み込んであったのである。鯨が魚であることを生物学者が否定するのは、彼の「魚性の概念」が素人のそれとは違っていることを示すものだ、と仮定する必要は全くない。生物学者は、「鯨は哺乳類であって、魚類ではない」が必然的真理であることを発見し、素人の誤りを正したにすぎない。いずれにせよ、「鯨は哺乳類である」も「鯨は魚類である」も共に、アプリオリあるいは分析的だと考えられてはいなかったのである。

出典:ソール A. クリプキ・著、八木沢敬 野家啓一・訳『名指しと必然性』(1985年 産業図書)

(僕はこの鯨の魚性についての結論については、違和感をもちます。おそらくクリプキの自然種名論が、生物の分類理論に対してそぐわないのだと思うのですが、まだこの点について具体的に整理できていないので、今回は違和感について付記するに留めます。)

 ところで固有名論においては、名前と特定の対象が客観的に結び付いている事態について、指示の因果説(最初の命名儀式から始まる人々のあいだでの伝播という見取り図)で説明されていました。自然種名と自然種概念とが結び付いていることを保証するものも、やはり人々のあいだでの伝播という見取り図が使えそうです。こちらは更に、ヒラリー・パトナム(1926-2016)という哲学者の考えも引いておきます。

 これらの事例から、パトナムは言語的共同体(the linguistic community)内部において言語的分業(division of linguistic labor)が生じていることを提示する。私たちの共同体は一つの「工場」にたとえられる。そしてその工場では、ある人は金の結婚指輪をはめ、ある人はそれを売り、また別の人はそのものが本当に金かどうかを判定するといった、さまざまな「仕事」がなされている。そして、そこにおいてある仕事に携わっている人が、他の仕事に従事するのは、必要でも効率的でもない。パトナムはそれを指摘してから、次のように述べる。

前述の事実はまさに(広い意味での)分業(division of labor)のありふれた例である。しかしそれらは言語的分業を発生させる。何らかの理由で金が重要なあらゆる人は「金」という語を得なくてはならない。しかし彼は、あらゆるものが金であるかそうでないかを分かる方法(the method of recognizing)を得る必要はない。彼はある特別の話し手の部分集合(a special subclass of speakers)に頼ることができる。

「彼」が頼る「話し手」とは「認める方法」を持つ「専門家(expert)」であり、その「認める方法」は個々の成員に知られていなくても専門家と非専門家のあいだのやり取りを通して「集合的な言語総体(the collective linguistic body)」に所有される。そして金や水についての最もよく見出された事実(水がH2Oであることなど)は、「水の社会的な意味の一部となるかもしれない」とされる。こうして私たち個々人は、水がH2Oであることを知らず、「無味無臭無色透明な液体」という表面的な特徴しか知らなくても、専門家とのやり取りがなされていることによって、「水」によってH2Oを指示できるようになる。

出典:黒澤雅惠・著『指示と言語』(2018年 京都大学学術出版会)

おわりに

 『名指しと必然性』、ものすごく面白く、生物の分類にも関わりそうな話題で、読んで良かったと言える本です。また今回の記事にまとめた解釈は、僕の独自解釈も多分に含まれますが、言語哲学大全Ⅰ・Ⅱ・Ⅲを読んでいなければ出てこないものでした。時間をかけた甲斐があります。

 ところで序盤で「神の視点から見た世界の言語理論」という私見をはさみましたが、やはり似たような見方をする哲学者もいたようです。リチャード・ローティ(1931-2007)という方の考えを引きます。彼は「指示」について、指示1・指示2・指示3に分けて考えたそうです。指示3が、僕が「神の視点から見た世界の言語理論」と呼んだものに相当する指示の在り方のようです。

まず、私たちが、日常的に行っている「指示」がある。この指示は「……について語る(talking about)」と同義であり、話し手は意のままに、自分の話そうと思っていることを話すことができる。このとき、その対象が存在していてもしていなくても問題はない。「この意味で、人はフロギストンやサンタクロースについて話すことができる」。これは「指示1」と呼ばれる。次に、ただ存在するもののみを指示する指示がある。これは専門的な「指示3」であり、指示対象の有無やそのありさまによって、その指示表現を含む命題の真偽が判断される。指示対象が存在しない場合、その命題は真ではありえない。逆に存在しないものは指示対象とはなりえない。そのため、指示3で表される関係は「語と世界のあいだの完全に客観的な関係」と考えられている。そして指示1と指示3のあいだに「ゼウスの雷霆といったものは存在せず、あなたが話しているものは雲からの放電である」というような発言に見出される「指示2」がある。ここで語られている対象は存在するもののみであるが、しかしこの指示2においては、語られていた存在者が発見されても主題が変わっているために、もとの命題の真偽は決定されない。このような指示2は「(他の信念があるならば)言うことを正当化されているものは何かについての議論と、真なるものは何かについての語りとのあいだを結ぶ、実践的な概念」であるとされる。

出典:黒澤雅惠・著『指示と言語』(2018年 京都大学学術出版会)

指示と実在との関係をローティは批判した。そのローティは、真理の概念として「保証された主張可能性(warranted assertibility)」を推した。これをローティは、次のように説明する。それは「私たちが通常「真」と呼ぶ主張」であり、多様にある会話の主題ごとに多様な方法で保証される。

「二たす二は四」「ホームズはベーカー街に住んでいた」「ヘンリー・ジェイムズはアメリカで生まれた」「世界にはより多くの愛があるべきだ」「フェルメールの光の直截的な使用はラトゥールの細工よりうまくいっている」これらはすべて保証された主張であり、正確に同じ意味においてすべて真である。これらのあいだの違いは、人がそれぞれの主張を正当化する方法の、社会学的研究によって明らかにされる。しかし意味論によってではない。……意味論は「どのように語は世界に関係するか」について何も言わないだろう。なぜなら言われるべき一般的なことがないからである。

この見解によれば、主題によってそれぞれの主張の正当化のあり方は異なるが、いずれも「……について語る」という「常識的な観念」が必要ということになる。そして話し手は、自分が語っていると思っているものについて語っており、それとは無関係の実在についてそれと接触しているか否かという関心を持っているというわけではない。この結果、「指示3」は的外れな概念となる。

出典:黒澤雅惠・著『指示と言語』(2018年 京都大学学術出版会)

 最後に、議論の趣旨に直接関わるものではありませんが、『名指しと必然性』の中で印象に残った箇所を引用します。

もちろん、直観的内容をもつことは何かを支持するための証拠としてはおよそ決定的ではない、と考える哲学者はいる。私自身は、それは何を支持するのにも非常に重い証拠だと考えている。究極的に言って、何についても、ある意味でそれ以上に決定的などのような証拠がありうるのか、私には皆目見当がつかない。

出典:ソール A. クリプキ・著、八木沢敬 野家啓一・訳『名指しと必然性』(1985年 産業図書)

僕がいま「ミドリムシは動物か?植物か?」と悩んでいるのも、生物学のスタンダードな解答例に対して直観的に違和感をもったことからでした。この違和感が決定的な証拠であることを期待して、引き続き考えていきます。


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